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刻み込まれた快感(25)

2015 07 03
「奥様とはどこでお知り合いに?」

考えてみれば、こんな風にアルコールに身を委ねるようなことなど、もう随分長い間ご無沙汰のような気がした。あの事件があった後、初めて口にした酒かもしれない。

朱里は、その久々の酔いに操られるかのように、そんな言葉を弁護士に投げた。

弁護士は、いつになくリラックスした雰囲気を漂わせていた。何かに追われるようにいつも忙しげな彼の姿は、今日はなかった。そんな梶を、朱里は見たことがなかった。

「もう忘れましたよ」
「まあ」

笑みを浮かべる朱里の顔を見つめながら、彼もまた笑った。めったに笑ったことなどない弁護士は、しかし、40代後半という年齢はやはり隠せない。笑顔にはどこか疲れた気配があった。

そして、彼は笑顔に似合わぬ言葉を返した。

「依頼人に手を出した、といったら、どう思われますかな、奥さん」
「えっ?」

朱里はワイングラスを手にしたまま、正面に座る彼の顔を見つめた。男はもう笑ってはいなかった。

「ストーカー被害にあっていた若いOLがいましてね。男ともめて裁判になりました。家内とはそこで出会ったんです。美しい外見に我を忘れ、気が付けば結婚してましたよ」

「・・・・・・・・」

「だが、やはり間違ってましたな。あの決断は」

「どう間違っていたんでしょう?」

男の言葉には棘があった。朱里はそこに僅かな嫌悪を覚えた。

「別の男に走ったんです」
「・・・・・・・・」
「その男とのセックスがそれほどによかったらしい」

今、いったい何時なんだろう。まだ8時にもなっていないはず。しかし、周囲はまるで深夜のように静かだった。朱里は、初めて認識した。

自分が今、夫以外の男と二人きりでいることに。

目の前の弁護士には、異性としての存在感が確かにあった。それは、朱里が梶に対し、かつて一度も感じたことのないものだった。

この男は妻に逃げられたというのか。朱里には、しかし、それ以上追及する勇気はなかった。

弁護士は、何杯目かのワインをグラスに自ら注ぎ、ちらりと朱里を見る。男が女を見るときの視線だった。胸が、なぜか高鳴ることを、朱里は感じた。

「もっとも、別の男に走った後、家内はまた私のもとに戻ってきました」
「そうですか・・・・・・・」

「その男が家内に与えたことを、私もまた、与えることができるようになったんです」
「先生・・・・・・・・・・」

「奥さん、今夜は先生はやめましょう。名前で呼んでもらえますか」
「わかりました・・・・・・・、あの、梶さん・・・・・・・・、こんなお話はもう」

困惑を示す人妻に構うことなく、梶は話を続けた。

「それに、もう何も心配する必要はありません」
「・・・・・・・・」

「家内の身体をいったんは奪った男が、突然亡くなったんです」
その瞬間、男がゆっくりと立ち上がった。

朱里は動けなかった。想像もしない姿を、男は見せ始めていた。息が乱れるほどに、朱里は高鳴る鼓動を感じていた。座ったまま、固まる人妻に、彼は声をかけた。

「失礼、御手洗いをよろしいですかね」
「は、はい・・・・・・・・・、あちらの・・・・・・・・・・・・・・」
「大丈夫です。場所はわかりますから」

弁護士が姿を消した後、朱里は深く息を吐いた。汗ばんだ肌。高い壁の向こうにいる夫のことが、妙に恋しくなった。申し訳ないが、この招待客には早く帰ってもらおう。朱里は、そんな決意を胸に秘めた。

だが、戻ってきた弁護士は、再びワインを開け、更に深く腰を沈めた。そして、別の角度から、人妻を責め始めた。

「殺人事件があった家にそのまま住むっていうのは、どうなんですかね、奥さん」
「えっ?」

「近所からいろいろ言われませんか」
「確かに、いい気持ちはしませんわ。でも・・・・・・・・・・」

どの感情を言うべきか迷うように、朱里は言葉を切った。そして、彼を見つめ、続けた。

「書道教室をここで続けたかったんです」
「子供たちの数も相変わらずですか」

「おかげさまで。近所の皆様も喜んでくれてますし」
「やはりここが奥さんのいるべき場所、というわけですか」

私のいるべき場所? 朱里は、梶の言葉を深く受け止めた。そう、ここは私がいるべき、いや、いなければならない場所。絶対に立ち去ることなんかできない。

彼のために・・・・・・・・・。

「奥さん、こんな噂がありましたな」
グラスをゆうゆうとまわす弁護士が、今度は何を口に出すのか、朱里はこわかった。

「ご主人が殺害してしまった男と奥さんは、実は親密な仲だったんだと」
「・・・・・・・・・」

「検察は終始この線で押してきました。被害者の男は決して奥さんを襲っていたんじゃない。二人は合意のもとに愛し合っていたんだ、と」
「・・・・・・・・・」

「私はそれに反論しました。そして、結果的には私の説が支持されました」
「梶さん、その話は」

「奥さん、ご安心ください」
「・・・・・・・・・」

「別にここで真実を教えろなんて奥さんに迫るつもりはありませんよ」
「・・・・・・・・・」

「私は既にそれを知っているつもりですからな」

遠方のどこかでサイレンが鳴っている。やがて消え去っていったその物悲しい音が、朱里がいる空間に不吉な気配を置いていった。

封印していた記憶が、人妻の体奥から湧き上がってきた。

ワインのせいだろうか。朱里は強烈なのどの渇きを感じた。

「奥さん」
「は、はい・・・・・・」

「ご主人とはもう1年も離れ離れですな」
「・・・・・・・・」

「いろいろとお寂しいでしょう」
「それは・・・・・・・・・」

再び立ち上がった男に、用を足しに行く気配はもうなかった。

「現場をもう一度見たいものですな」
「えっ?」

「奥様があの男に犯されていたという、和室です」
「・・・・・・・・・・」

「ご主人に殺害された被害者は1本の筆を握りしめていたそうですな」

恐怖・・・・・・。

深い、深い淵に引きずり込まれていく自分を、そのとき朱里は感じていた。


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