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迷い道(30)

2021 11 28
「国分君、今朝は見事なプレゼンでしたね」

昼食後、自席に戻った雅幸は、何か考え込むような様子でスマホを見つめていた。昼休みはあと10分程度で終わる。背後から声がかかったのはその時だった。

「笹本さん」

椅子から立ち上がろうとした雅幸を、声をかけた男性は笑顔で制した。笹本というその社員は、雅幸と同じ巨大買収プロジェクトの中心メンバーである。

年齢は40歳を少し超えたところだ。雅幸よりは入社年次が3年上の先輩となる。だが、今回のプロジェクトの中では雅幸の部下という位置づけにいる。

社内では敵を作らない、温厚で静かなタイプだった。口数は少なく、いかにもおとなしい外見だ。だが鋭い分析力と思いがけないほどの行動力を併せ持った人物でもあった。

「どうしたんだい、難しい顔して」
「い、いえ・・・・。大丈夫です」

隣の椅子に座った笹本の柔和な笑顔を見つめながら、雅幸はスマホを机の上に置いた。そして、彼に向かって改めて頭を下げた。

「笹本さんのおかげですよ。途中、何度か詰まりましたが、助けていただいて・・・」

「僕は何もしていないさ。社外取締役も国分君の説明に何度もうなずいていましたよ。次回の取締役会では我々の案が正式に決議される可能性が高くなりましたね」

この日、午前9時から取締役数名を含めた経営層に対し、買収プロジェクトの進捗と共に、買収先への最終的な提案方針を説明するという重要な会議が開催された。

このプロジェクトの最高責任者である藤倉常務はもちろん、実質的なプロジェクトリーダーとしての役割を担う雅幸、そして笹本など、主要社員が数名参加した。

約1時間のプレゼンテーションを行った雅幸に対し、出席者からは厳しい質問が何度も飛ばされたが、藤倉そして笹本の助けもあってどうにか乗り切ることができた。

「僕なんかより、やはり常務はさすがだよね」
会議中の光景を思い出すように、笹本は雅幸にそう言った。

「ええ。改めて藤倉さんの凄さを感じました」
「常務の国分君に対する株は今日の会議でますます上がったと思いますよ」

先輩である笹本にそんな風に言われ、雅幸は少し戸惑った表情を浮かべた。彼の部下であることに笹本がどう感じているのか、雅幸にはまだわからなかった。

「笹本さん、確か常務は午後はずっと外出ですよね」
「ええ。外で面談があるとか秘書の方が言ってましたが。また新しいプロジェクトを見つけ出してきて、国分君に任せるつもりかもしれませんね」

そこまで言った後、笹本はさり気なく周囲に視線をやった。ぼんやりとした様子で机に座る社員が何名か離れたところにいるが、至近距離には誰もいない。

「国分君、まだ油断はできませんよ」
「えっ?」

「今のプロジェクトも、まだどうなるか誰にもわかりません。あまりこういうことは言いたくないですが、仮に失敗に終われば我々もどうなることか」

それは雅幸ももちろん何度か考えたことがあった。買収が失敗に終わるだけならともかく、会社に何か損害を与えるような結果になった場合、果たしてどうなるのか。

「笹本さん、その場合は藤倉さんはどうなるんでしょうね」
「どうだろうな。難しい質問だが。ただ、我々はどこかに飛ばされるかもしれないね」

「降格人事、ですか?」
「そのとおり。たとえば海外のどこか僻地に異動させられるとか」

雅幸は、思わず妻、美帆のことを思い浮かべた。だが、こうも思った。どんなに遠く、厳しい場所だろうと、妻と一緒に行けるならそれでもいいのかもしれない。

そうなれば、常務が妻に会うなんてことを言い出すこともなくなるのだ。

「そろそろ仕事に戻りますか」
席から立ちながら、笹本は腕時計を見つめた。そのまま雅幸から離れるかと思ったが、最後に何かを思い出したように、彼はもう一度声を潜めて言った。

「国分君、奥様は大丈夫ですか?」
「えっ?」

「ほら、いつだったか、藤倉さんを自宅に招待したって言ってたでしょう」
「え、ええ。もう随分前になりますが。そのときの一度だけです」

「藤倉さんの部下の評価基準の一つが、どんな奥様かってことですから。国分君の奥様が何か困惑するようなことはなかったのかな、と少し心配してたんですよ」

途中まで冗談めいた口調だったが、最後の言葉には笹本が本当に心配しているという事実が滲んでいた。言葉に詰まったまま、雅幸は少し汗ばんだ自分を感じた。

「おかげさまで、妻は変わらず元気にやってます」
「そうですか。ならば安心だ」

笑顔を浮かべ、軽く手をあげて歩き始めた笹本の背中に、雅幸は声をかけた。

「笹本さん」
立ち上がった雅幸は、少し迷いながらも彼に疑問をぶつけた。

「笹本さんも藤倉さんからそんな風なアプローチを受けたことがあったんですか」
「私の妻に、ですか?」
「ええ」

確か笹本は数年前に結婚したはずだった。夫である笹本以上におとなしく、超がつくほどの内向的な女性らしい、と雅幸は誰かから聞いた記憶があった。

「私はきっぱり断りましたよ。妻も人と会うのは好きではないですしね」

再び笑顔を浮かべ、歩き去る笹本に対し、雅幸はそれ以上声をかけることができなかった。雅幸は感じていた。どこか皮肉めいたメッセージを彼に与えられたのでは、と。

二人が藤倉の希望を受け入れたかどうか、その違いがプロジェクトでの上下関係の理由ではないのか。そんなことを考えながら、雅幸は机上に置かれたスマホを見つめた。

笹本に声をかけられる直前、彼は妻に電話をしようとしていた。関西への長期出張から戻って、既に1ヶ月が経過している。

「藤倉さんからは一度も連絡なかったわよ」

自宅に戻った夜、妻は普段と変わらない笑顔を浮かべて雅幸に言った。その様子におかしなところは何もなく、少しでも妻を疑った自分を、雅幸は深く恥じた。

「あなた、ひょっとして妬いてるの?」
「えっ」
「もう・・・、藤倉さんと二人で食事してから、ずっと変な心配してるんでしょう」

夫をからかうように笑いながら絡んでくる妻の肢体を抱き寄せ、雅幸は濃厚なキスを与えた。その夜、ベッドの上で、妻はいつも以上に淫らに、敏感に反応した。

あれから1ヶ月、平穏な日々が過ぎている。だが、この日、重要な会議を無事に終えることができたせいか、雅幸はなぜか帰宅前に妻の声が聞きたくなった。

ふと、妻の様子が気になった、というほうが正確かもしれない。

午後、いくつかの会議が入っていた。さして重いものではなかったが、雅幸は忙しく過ごし、気づいたときには既に午後4時になろうとしていた。

以降の予定は特に入っていない。スマホを手にし、雅幸は早足でオフィスから廊下に出た。静かな廊下を歩きながら、雅幸は妻のスマホを呼び出した。

すぐに出るだろうと想像していたが、コールが繰り返されるだけだ。

「誰からだろう」
「主人です・・・・・」
「それは出なきゃ駄目だ」

森のそばの細い道に、一台のワゴン車が停まっている。


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