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甘い蜜(9)

2016 07 25
その日、忠彦の帰宅時間は午後10時台になった。

本当はもっと遅くなるはずだった。

ゼネコン主要各社を対象に、市役所土木課は四半期毎に説明会を開催する。現在の主な発注工事の進捗状況、そして今後のラフな受注募集計画。

業者側と情報を共有する重要なイベントが、今夜開催されたのだ。

業者会とも名づけられたこの会合のメインは、その後に開催される懇親会だった。

勿論、金銭的に疑惑が生じるような行為は、役所側、ゼネコン側双方にご法度だ。懇親会は、ルールに則った上で、両者が最大限に活用しようと互いにアプローチを試みる場であった。

忠彦は、土木課課長として、当然この夜は多忙だった。説明会を取り仕切り、質疑応答をそつなくこなした後、懇親会に移る。

酒も出る食事の席となり、ざっくばらんな雰囲気が漂ってくる。だが、酔うわけにはいかない。忠彦は終始冷静さを維持しながら、各社を無難に盛り上げ、情報取集に努めた。

酒に弱い忠彦は、ほとんどビールを舐めるだけだった。

「課長さん、いつもすみませんな」
こんな言葉があるゼネコンからかけられるだけで、忠彦は緊張に包まれる。

まるで自分が、裏で便宜を図っているかのような台詞だ。だが、忠彦はその動揺を決して顔に出さないほどに、既に十分に場数を踏んできている。

「たまには仕事をまわしてくださいよ」
こんな風に、真剣な表情でささやいてくる零細ゼネコンも少なくない。彼らの名刺を受け取りながら、忠彦はそれなりに話を聞いてやる。

市役所職員としては、ただただ気をつかう会だ。いつもこれを開催すると、たいていは帰宅が午前零時をまわる。

「今日は遅くなるからな」
この日の朝、忠彦は妻、正代にそんな風に言葉をかけた。

「あら、そろそろ懇親会かしら」
「そうなんだ。今日がまさにそれだよ」

「じゃあ遅いのね。わかったわ。頑張ってきてくださいな」
「ああ」

仕事の詳細を妻に説明したことは、結婚後もほとんどない。だが、この四半期ごとに開催されるイベントの大切さは、妻もよく理解していた。

今回の会にあたり、忠彦にはささやかな不安があった。

室石工務店、そしてもう一つ、内藤の転職した先の零細工務店の出席である。

室石の杉野が来たら、また妙なことを言われるのかもしれない。忠彦は、密かにそれを心配していたが、どうしたことか、いつも懇親会に参加する杉野は今日は姿を見せず、別の担当者がやってきた。

忠彦は安堵した。

更に、忠彦の不安を和らげたことは、内藤の不参加だった。経理担当である内藤が来る可能性は最初から少なかった。だが、忠彦は不安だった。

脅迫まがいの接近をされ、金銭を支払わざるを得なかった相手。しかも、その後、妙なことに自宅にまでやってきた。そんな男、内藤に、忠彦は冷静なままで会う自信がなかった。

だが、結局内藤も来なかった。

「よかった・・・・・・・」
忠彦は深く安堵し、その夜の懇親会に集中することができた。

会は特に混乱もなく、予定よりもかなり早く終わった。

そのため、忠彦の帰宅時間も随分早くなった。自宅最寄り駅前の百貨店地下では、例の人気のスイーツ店が閉店ギリギリだがまだ営業していた。

「正代を驚かせてやろうか」
珍しく、忠彦はそんなことを思い、その店に寄った。

閉店間際でも行列はあったが、10分程度待つだけだった。忠彦は若い女性店員に勧められるがままに品を選び、妻と自分のために人気スイーツを購入した。

「さてと、帰るか」
駅からのバスもまだ運行している。忠彦はバスに乗り、自宅に向かった。

自宅に到着したのは、午後10時半頃だっただろうか。

「ただいま」
玄関のカギを開け、中に入った忠彦は、家の中が妙ににぎやかなことに気付いた。

誰かいるらしい。

忠彦はふと、足元を見た。

紳士用の革靴がきちんと揃えておいてある。それは忠彦のものではなかった。

よく磨き上げられたその靴が、自分の履くような靴とはワンランク違うものであることに、忠彦はすぐに気づいた。

「ただいま」
忠彦は中に向かってもう一度声をかけた。

「あなた? ちょっと待って。今行きます」
リビングの方向から、妻の明るい口調が弾むように届いた。その後に、妻の笑い声がかすかに続いたように聞こえた。

「すみません、あなた、お帰りなさい」
小走りにやってきた妻は、普段着ではなく、あまり見かけないシックなシャツに、これも自宅では珍しいスカート姿だった。

「なんだ、お客さんか?」
忠彦は、妻にそう訊いた。

妻の頬が、僅かに紅く染まっているようにも見える。酒を飲んだのだろうか。

決してアルコールが飲めないわけではなく、むしろ好きなほうかもしれないが、最近では妻は酒を口にすることはあまりない。夫である忠彦がそれほど強くないのだ。

「誰、こんな時間に?」
靴を脱ぎながら、忠彦は軽い調子で聞いた。

「内藤さんがいらしてるのよ、あなた」
妻は、妙に楽し気な様子で答えた。

その瞬間、どういうわけか、忠彦はこう思った。

あの喫茶店で会ったとき、内藤はもっと薄汚れて、貧相な靴を履いていたはずだが、と・・・・・・・・。


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