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刻み込まれた快感(11)

2015 04 08
1か月が過ぎた。

盛夏が過ぎ、僅かに秋の気配が感じられる季節になった。

朱里の書道教室は相変わらず盛況だった。書道の実績もあって教え方も親切、そして美形の人妻講師となれば、人気が落ちるはずもなかった。

何とか人気の教室に入った生徒たちは、そう簡単にやめることはなかった。

1か月前、ぷっつりと朱里の前から姿を消した一人の生徒以外は。

「先生、ねえ、どうしたの?」
「ねえ、朱里先生、話聞いてる?」

子供たちからそんな指摘を受けることが、最近多くなった。元来、朱里はそんなタイプではなかったのだが、この夏の初め頃から、集中できない雰囲気を漂わせることが増えたようだ。

「大丈夫よ。さあ、書いて、書いて」
子供たちにそう声をかけながら、筆を持って、手本を示してやる。

それだけで心が揺れた。

あの体験以来、朱里は商売道具でもある「筆」に対して冷静さを失っていた。長い間慣れ親しんできたはずの筆に、あんな性格が隠されていたことを、朱里は知らなかった。

握るだけで、鼓動が高鳴るような気がした。

その毛先が、別の何かに見えてしまう。

朱里のその懊悩を、日々の経過が解決することはなかった。

彼があんなことをしたばかりに・・・・・・・・・。

朱里は、姿を消した若者に対し、複雑な感情を抱き始めていた。困惑と怒り、それを直接ぶつけたい。

別に、自分の欲情から何かを望んでいるわけではない。自分をこんな風に混乱させたあの若者に、ただ一言、不平を直接伝えたいだけだ。

朱里は迷った。

彼にコンタクトを試みるべきかどうか。

勿論、夫に相談するわけにはいかない。

朱里はこの1か月、そんな自問自答を繰り返してきたといってもよかった。

肉体には、あの不可思議な刺激が深々と刻み込まれている。

忘れなさい・・・・・・・・・・・・

あれは悪い夢だったのよ・・・・・・・・・・・・

37歳の人妻として、一人の書道講師として、朱里は元の生活に戻ることを何度も試みた。だが、心の平静は遂に取り戻すことができなかった。

駄目・・・・・・・、やはり、あの人ともう一度話をするべきだわ・・・・・・・・・・・・

ある日の午前、朱里は衝動的にファイルを探っていた。

書道教室に通う生徒たちが、入塾時に書き上げた申込書の束だ。そこには氏名、住所、そして数は少ないが、中学生以上の生徒は、携帯の番号を記載している場合もあった。

朱里は、やがて「彼」の用紙を見つけた。

鼓動を高めながら、人妻はその電話番号を見つめ、何かに操られるように指先を動かした。無意識のうちに、朱里は彼にその場で電話をかけていた。

だが、結果は朱里がどこかで予想していた通りになった。

既に番号は解約されていたのだ。

忘れるのだ、あの男のことは。現実がそう説得すればするほど、朱里の困惑は深まっていった。人妻にはそこで行動を提示させることが遂にできなかった。

「出かけるのか?」
土曜日の午前、一人で外出する妻に対し、夫は珍しそうに声をかけた。

「ええ。昔の知り合いが展覧会に作品を出してるっていうから」
「へえ、習字の?」

「そうなの。お昼過ぎには戻れると思うわ」
夫に嘘をついたことなど、過去にはなかった。

だが、こんな風に外出できるのは、教室がない週末しかなかった。朱里は、今日全てをはっきりさせるつもりだった。

彼にもう一度会い、不満をぶつける。そして彼もあの日に感じたであろう混乱を共有したい。そうすれば、互いが救われるような気がする。朱里は、そんな風に考えていた。

秋晴れの青空が広がっている。コートを着るにはまだ早い。シックなジャケットにスカートというフォーマルな格好で、朱里は最寄駅から電車に乗った。

数駅のところに、彼の自宅があるようだった。

だが、携帯は既に使われていない。恐らくは、そこももう引き払っているのかもしれない。住所を見る限り、それはマンションの一室のようであった。

電車を降りた朱里は、週末の午前、のんびりとした住宅街を緊張を抱えて歩いた。やがて、目的地にたどり着いた。3階建てのややくたびれたワンルームマンションがそこにあった。

「ここ、なのね・・・・・」
嘘の住所を書いているかも、と考えていた朱里には、実際にマンションがあったことが少し意外だった。なければいいのに、と願っている自分もどこかにいた。

セキュリティも備わっていないマンションだ。多くのポストにはDMが溢れかえっている。いったい、何人の人間がここに住んでいるんだろう。

朱里はそんなことを考えながら、ゆっくり階段を昇っていった。彼の部屋は3階のようだった。

果たして、彼はいるのだろうか。

夜勤明けで眠っているのか、或いはとうの昔に引越しているか。

不在であってほしい。そんな気分が急速に強まってくる。

階段を昇り切り、朱里はしばらくそこで立ち止まった。

静かだった。

週末というのに、物音一つ聞こえてこない。やはり、住民は少ないのではないか。屋外に面した狭い廊下が、ひっそりと続いている。同じフロアには5軒程度の部屋があるようだ。

ここに彼が・・・・・・・・。

立ち尽くしたまま、朱里はどこかのドアが急に開くことを想像した。

もしも、あの男が突然姿を見せたなら・・・・・・・。

朱里の視線が、その廊下にくぎ付けになった。

さあ、行くのよ・・・・・・・・。

だが、足が前に進まない。

もう十分でしょう・・・・・・、帰りなさい、早く・・・・・・・・・・。

朱里は、素肌に嫌な汗を感じた。

そのときだった。

朱里の口が、背後から突然塞がれた。


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