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依頼者~緑の過去(5)

2017 08 11
「先生、郵便物です」

金曜日の午後、緑は事務所の自室にこもりきりで過ごした。ある依頼者の不動産を巡るトラブルにつき、緑は今後の対応方針をまとめようとしていた。

「そこに置いておいて」
「はい」

スタッフが運んできたたくさんの封筒や手紙に、緑はそのとき時間を割いている余裕はなかった。

机の端に置かれた書類の山をちらりと見つめた後、緑は再びパソコンの画面をにらんだ。

夏の日の夕刻がやがて訪れ、スタッフ2名は午後6時前には仕事を終えて、家路についた。緑はただ一人、作業を熱心に続けた。

後藤と名乗る妙な男性依頼者との面談から、ちょうど1週間が経つ。緑は、もう彼のことを思い出すことはほとんどなかった。

夏はまだ続いている。作業の合間に、緑は窓の外の気配に耳を傾けながら、ふとそんなことを思った。

「あ~、久しぶりに海にでも行きたいわね」
自分だけしかいない事務所で、緑はそんな風につぶやき、椅子に座ったまま大きく伸びをした。

夫は今日から東京に出張で、戻りは週明けになる。それもあって、今夜の緑は仕事を早く切り上げるつもりもなかった。

「もう少しね」
自分自身にそうささやき、緑はなおも集中を持続させた。

スタイルがいいだけでなく、知的な美しさをも備えた弁護士。二人のスタッフを抱える事務所の責任者であり、夫を持つ人妻でもある。

机の下、スカートの奥からすらりと伸びる両脚は、例えば裁判所ですれ違う男性たちの視線を確かに刺激している。だが、緑はそんな自身の魅力に特に関心を払ってはいない。

自分の選んだ仕事に全力を注ぎ、夫との家庭を築きあげていく。それが許されるだけで、緑は満足を感じていた。

誰にも崩されることのない、強固な楼閣なのだ、と緑は信じていた。

「あ~、疲れた・・・・」
午後8時をまわったころ、緑は再び大きく両手を伸ばして疲労を解放しようとした。水色の無地のブラウスの胸元が、官能的に盛り上がっている。

「あとは家でやろうかしら」
夫が不在である週末、やろうと思えば自宅で好きに仕事ができるのだ。

緑はパソコンを閉じ、椅子から立ち上がった。そして肢体をほぐすようにストレッチをしながら、窓の外を見つめた。

夜の街。この地方都市の中心部にほど近い場所だ。このビルからは、まだ多くの人が行きかう夜の街並みを眺めることができる。

楽し気に歩く若者の集団を見つめ、緑は小さな笑みを浮かべた。そして、窓のブラインドを再び戻そうとしたときだった。

緑は誰かがこの事務所の窓を見つめているらしいことに気付いた。

恐らく男性だろう。通りの向こう側にある並木の幹と重なり合うように立ったまま、確かにこの事務所の窓を見つめている。

周囲のオフィスにはもう誰もいないのかもしれない。それであれば、この事務所の私の部屋の窓だけが、煌々と光を放つ場所になる。

かなり離れている。肉眼で何かが確認できるような距離ではない。だが、男性と思われるその人物が、例えば双眼鏡を持っているような気配はない。

ただ単に、この事務所に誰かがまだいるのかどうか、それを確認したいだけのようにも見える。

「気のせいかしら・・・・」
緑はそう感じながらも、その人影に抵抗するように強い視線で見つめ返した。

大型の観光バスが何台か通り過ぎる。その間、緑の視線が遮られた。闇に包まれた通りの向こう側を、緑がもう一度見つめたときだった。

「あっ・・・・」
その人物は、まるで最初からそこにいなかったように、姿を消していた。

見間違いだったのだろうか。いや、そんなことはない。確かに誰かがそこにいて、こちらを監視するように見ていたはずだ。

「いやだわ・・・・」
だが、緑はそれを深刻なこととは受け止めなかった。過去にも何度か嫌がらせのような被害を受け、その都度緑はそれを乗り切ってきたのだ。

どことなく不安を感じながらも、しかし、それにいちいち構っていることもできない。緑は再び後片付けを始めた。

そのとき、机の片隅に積まれた郵便物が改めて緑の視線にとまった。

「これは今日確認しなきゃ」
週明けにこんな作業を持ち越したくはない。封書の多くが、さして意味のないDMのはずだ。緑は素早くその確認を開始した。

見たことがある封筒ばかりである。大半の封書を振り分けたとき、緑は一番下にある白無地の封筒を見つけた。

「何かしら・・・・・」
どこかからのDMのようではない。宛先は緑、個人名になっており、差出人の名前は記載されていない。

だが、初めての依頼者からそんな風に連絡が来ることも、過去には何度かあった。緑は軽い気持ちで封を開けた。

そこには1枚の便箋と1枚のカラー写真、そしてSDカードのような媒体物が1枚入っていた。

「ミドリさん、お久しぶりです」

便箋に書かれた文章は、そんなメッセージと共に始まっていた。

18年前の夏・・・・。私のことはもうお忘れでしょうね・・・・。そんな言葉が並んだ、その手紙を読んでいくうちに、緑はいつしか椅子に沈むように座り込んでいた。

「近いうちに是非再会しましょう」

メールアドレスと思われる情報と共に、手紙はそんな言葉で締めくくられていた。

名前は書かれていない。

手紙を手にしたまま、緑は机に置かれた1枚の写真を見つめた。真夏の砂浜に並んだ水着姿の若い女性グループの姿が、そこにはあった。

笑顔でポーズをとる彼女たちの周りには、少し年上と思われる男性が、女性と同じ数だけ、これも水着姿で取り囲んで立っている。

若い男女のグループが夏の旅行に出かけた海で撮影した、1枚のスナップ写真。そんなタイトルが似合いそうな写真を、緑は冷静に見ることができなかった。

18年前の私だ・・・・。

学生時代を過ごした街から、緑は船に乗ってその島に出かけた。18年前の夏、緑が20歳になる年の8月だ。

同じサークルに所属していた同学年の女性、計5名での旅行。そんな過去の記憶が、今、緑の事務所の机の上で、鮮明によみがえろうとしている。

写真だけではなく、SDカードに保存された映像を見てくださいと、その手紙は緑に要請していた。

名前の書かれていない手紙。だが、緑は、その発信者が誰なのか、既に理解していた。

その写真の撮影された日の夜、緑は初めて男性に抱かれた。

「どうやって私のことを・・・・」
名前も知らぬその男性が、現在の自分の居場所をどうやって突き止めたのか、いや、そもそもあの時の女性が私だということを、どうやって知り得たのか。

売春行為、という言葉が、はっきりと記されたその手紙。

懸命に理性を維持しながら、緑は帰り支度をし、事務所を後にした。バッグの中に手紙と写真、そしてSDカードを隠したまま。

ビルを出て速足であるく緑に、再び通りの向こう側から見つめてくる視線に気づく余裕はなかった。


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