FC2ブログ

甘い蜜(13)

2016 08 11
帰宅した忠彦は、自分で玄関の鍵を開けた。

いつもなら出迎えてくれる妻が、今夜はいない。

家の中は暗く、物音ひとつしない。

忠彦に冷酷な事実を認めることを迫るような、重たい静寂だった。

本当に出かけてしまったのか。

内藤が忠彦の妻、正代との会食を指定した夜が今日だった。

何かの都合で妻は出かけないのではないか。忠彦はそんな勝手な想像をしていたが、現実はそうはならなかった。

妻は、約束通り、内藤との食事に出かけたのだ。

妻にそうするように要求したのは誰あろう、俺ではないか。廊下の照明も点けることなく、忠彦は闇に包まれた自宅の中に入っていった。

内藤が指定したのは、駅近くの繁華街の一画にある割烹料理屋だった。忠彦自身、その店には過去に何度か行ったことがある。周囲の喧騒とは無縁な、静かな高級店だ。

座敷の個室がいくつかあったはずだ。内藤は恐らく個室を予約したに違いない。

内藤の要求にはできる限り応えること。夫のそんな指示を、妻は果たしてどこまで従うのだろうか。そして、あの男は今夜、妻に何を求めるのだろうか。

こんなこと、やはりおかしい。

忠彦はそう感じながら、自らの過去の行為を封印するためには、もはや内藤に従い続けなければならないことも、理解していた。

妻を使って、あの男はどこまで俺に脅迫めいたことを続けるつもりなのか。

今夜、その答えが出るような気がする。忠彦はそう感じていた。

午後7時半。

二人はもう、食事を始めているに違いない。

酒を飲みながら、楽し気に談笑する二人の姿を、忠彦は想像した。

妻の肢体をちらちらと見つめる内藤の姿を、忠彦は想像した。

「お綺麗ですな、奥さんは」

こんな言葉をかけられた妻は、果たしてどう反応するのだろうか。

妄想が忠彦の心を苦しめる。

ダイニングの照明をつけ、忠彦は何本かの缶ビールをテーブルに置いた。乱れる心を鎮めようと、彼はビールを喉に流し込んだ。

鼓動が高鳴っている。

嫌な汗を感じながら、忠彦はビールをあおった。

こんな風に妻が夜、一人で外出するなんて、過去にあっただろうか。

少なくとも、別の男と食事をするために外出したことは、一度もない。

41歳の人妻が、夜の繁華街を別の男と連れ立って歩く姿。

男の手が、人妻の腰に絡む。

それを遮ろうとする人妻の手を、男が掴む。

戸惑いながらも、人妻は男にそれを許す。

忠彦は目を閉じ、ビールを飲み続けた。

握りつぶされた空き缶が、テーブルに並んでいった。

重苦しい時間が、ゆっくりと過ぎ去っていく。

忠彦は、結局午後10時過ぎまでテーブルに座ったまま、ビールに浸った。

壁にかかった時計の針を見つめ、忠彦は時間の経過の遅さを呪った。

「ただいま」

妻の声が聞こえたのは、午後10時半になろうとしているときだった。

想像していたよりも、それは早く訪れた。

忠彦は思わず立ち上がり、小走りで玄関に向かった。

「すみません、もう少し早く帰りたかったんだけど」
パンプスを脱ぎながら、正代が忠彦に頭を下げた。

妻の様子におかしなところはなかった。

ただ、やはり酒を少し飲んだのだろうか。頬が僅かに紅く染まっているような気がする。

細身の肢体を強調するようなパンツスーツ姿の妻は、自分の知る妻ではないように見えた。外から帰ってきたせいなのだろうか、妻の姿は妙になまめかしくも映った。

「すまなかったな、変なことをお願いしてしまって」

忠彦は、そう言うのが精いっぱいだった。

「私は大丈夫よ。それより、あなた・・・・・・・・・」

妻の口調に、忠彦は胸騒ぎを覚えた。

内藤のほくそ笑む姿が、忠彦の脳裏をよぎった。


(↑クリック、更新の励みです。凄く嬉しいです。次回更新8月17日の予定です。)
>>申し訳ございません。作者都合により、次回更新8月25日とさせてください。よろしくお願いします。
 | HOME | Next »