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夫の秘密、或いは妻の秘め事(34)

2014 11 25
単調な生活であろうと、止めるわけにはいかない。

この世に生を受けた者であれば誰しもが受け入れなくてはならない事実だ。人妻にはそれがよくわかっている。それがわからない振りをするほどに、自分はもう若くなはいことにも。

夫が家を出たのは、いつもと同じ午前7時前である。子供はいない。都心部の会社に出勤する夫を見送った後、人妻はいつもの通り一人きりの朝食をとる。静かな空間の中で。

その人妻はテレビをほとんど観ることがなかった。あまり興味を示さない夫の性向に影響されたのかもしれない。もっとも、そうでなくても自分は好きにはならなかったのだろう、と感じてもいた。

どの番組を観ても、人妻は同じメッセージを感じた。視聴者に対してどこか媚びたような、そんな態度だ。それは、彼女がもっとも嫌う感覚であった。

冬が終わろうとしている。3月下旬の朝だ。人妻にとって、それは晩秋と同様に好きな季節であった。窓から降り注ぐ朝の陽光を感じつつ、人妻は熱いミルクティーをゆっくり飲んだ。

近所の子供たちが学校に向かうのであろうか。とにかく楽しいと言いたげな声が、どこかから聞こえてくる。人妻はテーブルに広げた新聞を1面からゆっくり読みながら、トーストを食した。

「私、働こうかしら・・・・・・」
人妻は以前、夫に何度かそう言ったことがある。

経済的には何も困っていない。IT関係の企業で働く夫の収入は、夫婦二人の生活には十分すぎるほどなのだ。だが、今の時代、先行きがどうなるか、勿論誰にも予想などできない。

夫は、しかし、妻が働くという案を歓迎はしなかった。拒絶する、というほどの態度ではなかったが、毎回遠まわしに妻に対し、その必要がないことを説得しようとした。

人妻もまた、どうしても外に出たいというわけではない。損保会社で7年ほど勤務した人妻だったが、そこで何か誇れるような能力を得たわけでもなかった。

「主婦でいてくれ」と夫が望むのなら、別にそれでいいわ。人妻はそう考え、ここまで暮らしてきた。その朝、新聞を見つめながら、人妻はふとそんなことを考えていた。

やがて朝食を終えて、台所の片づけに移る。同時に洗濯も始める。自分に課された作業の流れを完璧に掴んでいる人妻は、全てを滞りなく、淡々と進めていく。

会社勤めの頃、男性、女性を問わず称賛されたプロポーションを依然として維持している人妻は、その肢体を自宅の中で存分に動かした。そして、室内の掃除を開始した。

家事を嫌だとか面倒だとか感じたことはほとんどない。自分はやはり、主婦になりたかったのかもしれない。人妻は高校の卒業文集にあった、10年後の自分、という欄を思い出す。

進学校でもあったせいか、クラスメートは野心に富んだ、文字通り「夢」といえそうな言葉をそこに並べたてたものだ。だが、人妻は、そこにただ一言、こう書いた。

「おくさん」

自分はただ、幸せな結婚を迎えたかったのだ。ならば、今の生活は、まさに夢がかなったといえるのではないのか。妙なことを思い出す自分に、人妻はふと笑ってしまった。

掃除機の音が室内にうるさく響く中、居間のテーブルに置かれた携帯電話が鳴ったことに、人妻は気づかなかった。そのまま彼女は部屋を移動して掃除を続けた。

今日はお風呂掃除もしようか・・・・・・・・。一度そう思ってしまうと、勿論止めるわけにはいかない。人妻はたっぷりと時間をかけ、その午前の仕事に集中していった。

3月だというのに、人妻は素肌に汗を僅かに浮かべている自分を感じる。運動は嫌いではない。高校時代に短距離でならした人妻は、自宅付近を一人走ることもあった。

全ての作業が終わったのは午前11時をまわった頃だった。寝室に行き、人妻は素早く着替えを済ませると、何かを探すように鏡の中の自分をしばらく見て、そして家を出た。

特に人に会う予定はない。ここ最近、誰かと会うような用件と共に外出することは少なくなっている。だが、人妻は決して出不精というわけではなかった。

郊外に住む人妻にとって、自家用車が普段の足であった。その日、車で15分程度の距離にあるショッピングモールを目指しながら、人妻は改めて春の気配を窓越しに感じていた。

平日ではあるが、駐車場はいつも通り混雑している。停車スペースを見つけ、車から降りた人妻はモール内にある家電量販店に最初に向かった。

夫に頼まれていた買い物をそこで済ませた後、人妻はモール内で簡単な昼食をとり、書店、そして食品スーパーを訪れた。既に描いていた計画通りに、買い物を進めていく。

「奥さん、まいど」
精肉コーナーの責任者と思われる店員が、いつものように声をかけてくる。人妻よりは10歳程度年上だろうか。このような商売にはうってつけの、感じがいい男性であった。

「こんにちは。忙しそうですね」
「ええ。おかげさまで。奥さんはどうですか?」

「私は主婦ですから、気楽なものですよ」
「いやいや、世の奥さんがたが旦那よりよほど大変だってことぐらい、よくわかってますよ」

いつもように口は達者だった。適当な会話を済ませた後、人妻は次のコーナーに向かおうとしたが、背後から何かを言い忘れたように、彼が声をかけてきた。

「しかし、ますますお綺麗になりましたね、奥さん」
「そんなこと・・・・・・・」

「なんか、いっつもそんなこと言ってる気がしますけどね」
豪快に笑いながら、彼は次に来た女性客に愛想よく視線を向けた。

彼の視線がいつも自分自身の肉体に注がれていることを、人妻は知っている。だが、特に何も考えることなく、人妻はそのまま買い物を進め、そしてレジに向かった。

支払いを終え、両手に重い袋を抱えながら、駐車場に向かう。

「持ちましょうか?」
ふと、傍らから声をかけてきたのは、まだ学生と思われるような若者だった。

「いえ、結構よ」
笑顔で答える人妻に対し、若者もまた軽く会釈をしてすぐに離れていった。

車に戻り、一息ついた後、エンジンをかける。そして、人妻は自宅へと戻った。帰宅したのは午後3時になる頃だった。野菜やヨーグルトを冷蔵庫に入れているとき、携帯が鳴った。

そのとき初めて、人妻は午前に着信があったことを知った。今電話をかけてきた相手は、そのときと同じ人物であった。人妻は手にしていた牛乳を置き、慌てて電話に出た。

「梶野です・・・・・・・・・・・・」

会話は10分程度続いた。テーブルの上に携帯を置いた後、人妻はすぐに仕事に戻った。買ってきた食品を全て所定の場所に置き、人妻は洗濯物の取り込みに移った。

そのとき、郵便局の配達員がドアフォンを慣らした。人妻宛の書留であった。受け取ったそれを開封することもせず、人妻はそのまま洗濯物に向かった。

一通りの作業を終えた後、人妻は居間のソファに腰を沈めた。朝食と同じ濃いミルクティーを傍らに、人妻は読みかけの小説に手を伸ばした。

読書家ではないが、結婚後はこんな風に本を読むことが多くなったのかもしれない。特に数か月前から、人妻は以前にも増して読書に時間を費やすようになっていた。

それも、特定のジャンルの本だ。

そして、夕刻が近づいてくる。今日は珍しく夫は自宅で食事をとると言っていた。料理にも決して手抜きをしない人妻は、いつも通り、5時近くから台所に立った。

やがて、外の闇が濃くなり、夜の時間がやってくる。料理の準備ができ、かなり時間が経過した後に、夫が帰宅した。人妻は、玄関先で彼を迎えた。

「おかえりなさい。お疲れ様」
「ああ。ただいま」

夫婦での夕食、ささやかな会話を経て、一日が終わろうとしていく。食器洗いを進めながら、人妻はちらりとテーブル上の携帯電話に視線を投げ、またすぐに手元に戻した。


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