あさぎ色の雨(33)
2023 06 03
「そろそろ帰国なんだよね」
冷たい雨が窓に寂しげな音を立てている。夜になれば雪に変わるのかもしれない。2月も終わろうとしているが、この冬の寒さはもうしばらく続きそうだった。
「その予定よ」
椅子に座って推理小説を読み耽っていた人妻は、すぐ隣に座る若者に視線を投げた。自分の夫について聞かれているのだと、彼女にはもちろんわかっている。
半年ほど前、髪型をショートに変えた美枝子は、一層美しさと色気を増したようだ。藤倉正孝は握っていたペンを器用に回しながら、改めてそんなことを思った。
「嬉しい?」
「何が?」
彼の問いかけに、人妻は再び文庫本に視線を落とした。女性同士の微妙な恋愛が描かれた小説。そんな世界にまるで興味はなかったが、人妻の躰は確かに疼いていた。
「旦那さんが帰ってくることさ。毎晩抱いてもらえるじゃないか」
「彼はそんなタイプじゃないわ」
「そうなんだ」
「でも・・・・、そうね、夫には早く会いたいわ」
再び視線を上げた美枝子は、自分でも何を言おうとしているのかわからないまま、宙を見つめた。半年前のあの日、あの男に激しく愛された記憶・・・・。
「私、この1年で変わってしまったのかもしれない」
「美枝子さん・・・」
「だから、夫に会えばまた昨日の自分が思い出せるかもしれない、って」
そんな本音を抱いていたことに戸惑いながら、美枝子はあの夜の記憶を今一度捨て去ろうとする。だが、それは人妻の熟れた肉体に快感と共に深く刻み込まれている。
「美枝子さん、確かに変わった気がするよ、最初に会った時と比べると」
「どう変わったと思う?」
「そうだな・・・・。もっと色っぽくなったっていうか」
「そうかしら」
「髪切った頃からかな。前よりもっと綺麗になったよ。でもね・・・・」
「でも?」
「何となく寂しそうに見えるな、最近の美枝子さんは」
年少の若者の言葉が、人妻の体奥に刺さる。この寂しさは、夫と1年ぶりに再会すれば本当に霧消するのだろうか。小説を閉じ、美枝子は窓の外に視線を投げた。
深夜、火照った肢体をどうにもできず、ベッドの上、あるいはシャワールームで一人、時間をかけて達してしまうまで耽ってしまういけない行為。
晩秋のあの日以降、性の誘惑に美枝子は翻弄され続けている。夢の中であの野獣に抱かれ、下着を淫らに濡らしてしまう朝がもう何度あったことだろう。
この体をもう一度夫に抱いてもらえば、そんな寂しさを私は本当に忘れることが・・・・
「でも、美枝子さんらしいよね、昨日の自分を思い出すなんて言い方」
「何だか古い詩の一節みたいね」
「そうそう」
爽やかな笑顔を浮かべた若者は、机上に広げた数学の問題集に集中した。1月に行われた試験で想定以上の高得点を稼いだ彼は、今週末に2次試験を受ける予定だった。
もう何ヶ月も、正孝は美枝子の体に触れようとはしなかった。週に数日、二人はこの部屋でただ一緒の時間を過ごし、勉強の合間に他愛もない会話を交わした。
「我慢しなさい。合格したら何でもさせてあげるから」
以前、美枝子はこんな言葉を彼に投げたことがある。彼がそれを覚えているのか、人妻にはわからない。だが、美枝子はこの部屋で彼と過ごす時間が楽しかった。
過去の自分を少しでも思い出すため、正孝と同じ空間にいて、会話を交わすことが美枝子には癒しの時間に感じられた。そんな彼がもし合格して私を求めてきたら・・・。
自分がどう振る舞うべきか、いや、どう振る舞いたいのか、美枝子にはまだわからない。
「そろそろ行くわ」
気づけば既に窓の外は完全な闇に包まれていた。午後7時になろうとしている。雨は止んだようだ。小説を入れたバッグを閉じ、美枝子は立ち上がった。
「美枝子さん、明日も来てくれるよね」
「土曜でしょう、試験は」
「今週は金曜までずっと来てよ、美枝子さん」
「いいわ」
去り際の抱擁もなければキスもない。もう半年ほどずっとこんな感じだ。机に座ったまま、正孝は美枝子に軽く手を振った。
階段を降り、静寂に包まれた1階を歩く。藤倉千香子は不在のようだ。ドアを開け、外に出る。門に向かって歩きながら、美枝子は無意識のうちに庭を見つめた。
「・・・・」
闇の奥、動くものが見える。それが何か、美枝子には瞬時に理解できた。あの日以降、姿を消していた庭師が、2月の闇に包まれた庭で作業をしているのだ。
その場で凍りついたように、美枝子は歩みを止めた。帰るのよ・・・。理性が体奥で叫ぶ。濃厚に蘇るホテルのベッドでの記憶、そして夫の姿が人妻の心で交錯する。
いけない、彼と会っては・・・・
葛藤に包まれた人妻は、しかし理性が促したのとは違う方向に足を踏み出してしまう。雨で濡れた冷たい土を踏み締め、美枝子は庭の奥に向かって静かに歩いた。
「ねえ」
声をかけたのは美枝子のほうだった。
枯れた木々を束ねていた彼は、その声に顔をあげようとはしなかった。そこにいる人妻が、自分の意志でここに来ることを最初から知っていたかのように。
「ねえってば」
焦らすように言葉を返さない男に対し、人妻はもう一度声をかけた。
冷えた空気を首筋に感じ、美枝子はコートの襟元を閉じるように手を動かした。それは、そこにいる男から自分の肢体を守ろうとする動きにも見えた。
「会いたかっただろう」
視線を手元から動かすことなく、男は静かに言葉を発した。彼の声を聞いた瞬間、美枝子の肉体にあの夜の記憶が蘇った。人妻の鼓動は既に高鳴っている。
「別に・・・・・」
「ずっと会いたかったんだろう、俺に」
「・・・・・」
「毎晩俺にされることを思い出して、一人で楽しんでるんじゃないのかい?」
「いい加減なこと、言わな・・・」
突然立ち上がった男が、美枝子の言葉を遮ると同時にその細い手首を掴んだ。泥に塗れた男の息遣いを至近距離で感じながら、人妻は苦しげに言った。
「痛いわ・・・・、離して・・・・」
「髪を切ったのかい、奥さん」
「関係ないわ、あなたには」
「そうかな」
コートを着た人妻の腰に腕を回し、細身の肉体を抱き寄せる。悶えるように抗う美枝子は、しかし逃げることができない。男は強引に人妻の唇を奪った。
「いやっ・・・・・・」
顔を振ってキスから逃れようとする人妻を、男は強い腕の力で抱きしめる。二人の舌が触れた瞬間、美枝子の肢体に妖しい熱が走り抜ける。
捉えられた舌を熱く吸われてしまう。息を乱す人妻のコートの内側に、男の手が滑り込んでくる。やめて・・・。胸元を愛撫した指先が、美枝子の下腹部に伸びていく。
「もう濡れてるんだろう、奥さん」
「・・・・・」
「ここがどうなってるんだって聞いてるんだ」
「触らないで・・・・・」
「確かめてやる。こっちへ来るんだ」
庭の奥にある粗末な小屋に視線を注ぎながら、男が興奮気味に声を荒げた。

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※次回、6月10日深夜に更新予定です。
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こちらでも新作連載中です
「人妻コレクション」
冷たい雨が窓に寂しげな音を立てている。夜になれば雪に変わるのかもしれない。2月も終わろうとしているが、この冬の寒さはもうしばらく続きそうだった。
「その予定よ」
椅子に座って推理小説を読み耽っていた人妻は、すぐ隣に座る若者に視線を投げた。自分の夫について聞かれているのだと、彼女にはもちろんわかっている。
半年ほど前、髪型をショートに変えた美枝子は、一層美しさと色気を増したようだ。藤倉正孝は握っていたペンを器用に回しながら、改めてそんなことを思った。
「嬉しい?」
「何が?」
彼の問いかけに、人妻は再び文庫本に視線を落とした。女性同士の微妙な恋愛が描かれた小説。そんな世界にまるで興味はなかったが、人妻の躰は確かに疼いていた。
「旦那さんが帰ってくることさ。毎晩抱いてもらえるじゃないか」
「彼はそんなタイプじゃないわ」
「そうなんだ」
「でも・・・・、そうね、夫には早く会いたいわ」
再び視線を上げた美枝子は、自分でも何を言おうとしているのかわからないまま、宙を見つめた。半年前のあの日、あの男に激しく愛された記憶・・・・。
「私、この1年で変わってしまったのかもしれない」
「美枝子さん・・・」
「だから、夫に会えばまた昨日の自分が思い出せるかもしれない、って」
そんな本音を抱いていたことに戸惑いながら、美枝子はあの夜の記憶を今一度捨て去ろうとする。だが、それは人妻の熟れた肉体に快感と共に深く刻み込まれている。
「美枝子さん、確かに変わった気がするよ、最初に会った時と比べると」
「どう変わったと思う?」
「そうだな・・・・。もっと色っぽくなったっていうか」
「そうかしら」
「髪切った頃からかな。前よりもっと綺麗になったよ。でもね・・・・」
「でも?」
「何となく寂しそうに見えるな、最近の美枝子さんは」
年少の若者の言葉が、人妻の体奥に刺さる。この寂しさは、夫と1年ぶりに再会すれば本当に霧消するのだろうか。小説を閉じ、美枝子は窓の外に視線を投げた。
深夜、火照った肢体をどうにもできず、ベッドの上、あるいはシャワールームで一人、時間をかけて達してしまうまで耽ってしまういけない行為。
晩秋のあの日以降、性の誘惑に美枝子は翻弄され続けている。夢の中であの野獣に抱かれ、下着を淫らに濡らしてしまう朝がもう何度あったことだろう。
この体をもう一度夫に抱いてもらえば、そんな寂しさを私は本当に忘れることが・・・・
「でも、美枝子さんらしいよね、昨日の自分を思い出すなんて言い方」
「何だか古い詩の一節みたいね」
「そうそう」
爽やかな笑顔を浮かべた若者は、机上に広げた数学の問題集に集中した。1月に行われた試験で想定以上の高得点を稼いだ彼は、今週末に2次試験を受ける予定だった。
もう何ヶ月も、正孝は美枝子の体に触れようとはしなかった。週に数日、二人はこの部屋でただ一緒の時間を過ごし、勉強の合間に他愛もない会話を交わした。
「我慢しなさい。合格したら何でもさせてあげるから」
以前、美枝子はこんな言葉を彼に投げたことがある。彼がそれを覚えているのか、人妻にはわからない。だが、美枝子はこの部屋で彼と過ごす時間が楽しかった。
過去の自分を少しでも思い出すため、正孝と同じ空間にいて、会話を交わすことが美枝子には癒しの時間に感じられた。そんな彼がもし合格して私を求めてきたら・・・。
自分がどう振る舞うべきか、いや、どう振る舞いたいのか、美枝子にはまだわからない。
「そろそろ行くわ」
気づけば既に窓の外は完全な闇に包まれていた。午後7時になろうとしている。雨は止んだようだ。小説を入れたバッグを閉じ、美枝子は立ち上がった。
「美枝子さん、明日も来てくれるよね」
「土曜でしょう、試験は」
「今週は金曜までずっと来てよ、美枝子さん」
「いいわ」
去り際の抱擁もなければキスもない。もう半年ほどずっとこんな感じだ。机に座ったまま、正孝は美枝子に軽く手を振った。
階段を降り、静寂に包まれた1階を歩く。藤倉千香子は不在のようだ。ドアを開け、外に出る。門に向かって歩きながら、美枝子は無意識のうちに庭を見つめた。
「・・・・」
闇の奥、動くものが見える。それが何か、美枝子には瞬時に理解できた。あの日以降、姿を消していた庭師が、2月の闇に包まれた庭で作業をしているのだ。
その場で凍りついたように、美枝子は歩みを止めた。帰るのよ・・・。理性が体奥で叫ぶ。濃厚に蘇るホテルのベッドでの記憶、そして夫の姿が人妻の心で交錯する。
いけない、彼と会っては・・・・
葛藤に包まれた人妻は、しかし理性が促したのとは違う方向に足を踏み出してしまう。雨で濡れた冷たい土を踏み締め、美枝子は庭の奥に向かって静かに歩いた。
「ねえ」
声をかけたのは美枝子のほうだった。
枯れた木々を束ねていた彼は、その声に顔をあげようとはしなかった。そこにいる人妻が、自分の意志でここに来ることを最初から知っていたかのように。
「ねえってば」
焦らすように言葉を返さない男に対し、人妻はもう一度声をかけた。
冷えた空気を首筋に感じ、美枝子はコートの襟元を閉じるように手を動かした。それは、そこにいる男から自分の肢体を守ろうとする動きにも見えた。
「会いたかっただろう」
視線を手元から動かすことなく、男は静かに言葉を発した。彼の声を聞いた瞬間、美枝子の肉体にあの夜の記憶が蘇った。人妻の鼓動は既に高鳴っている。
「別に・・・・・」
「ずっと会いたかったんだろう、俺に」
「・・・・・」
「毎晩俺にされることを思い出して、一人で楽しんでるんじゃないのかい?」
「いい加減なこと、言わな・・・」
突然立ち上がった男が、美枝子の言葉を遮ると同時にその細い手首を掴んだ。泥に塗れた男の息遣いを至近距離で感じながら、人妻は苦しげに言った。
「痛いわ・・・・、離して・・・・」
「髪を切ったのかい、奥さん」
「関係ないわ、あなたには」
「そうかな」
コートを着た人妻の腰に腕を回し、細身の肉体を抱き寄せる。悶えるように抗う美枝子は、しかし逃げることができない。男は強引に人妻の唇を奪った。
「いやっ・・・・・・」
顔を振ってキスから逃れようとする人妻を、男は強い腕の力で抱きしめる。二人の舌が触れた瞬間、美枝子の肢体に妖しい熱が走り抜ける。
捉えられた舌を熱く吸われてしまう。息を乱す人妻のコートの内側に、男の手が滑り込んでくる。やめて・・・。胸元を愛撫した指先が、美枝子の下腹部に伸びていく。
「もう濡れてるんだろう、奥さん」
「・・・・・」
「ここがどうなってるんだって聞いてるんだ」
「触らないで・・・・・」
「確かめてやる。こっちへ来るんだ」
庭の奥にある粗末な小屋に視線を注ぎながら、男が興奮気味に声を荒げた。

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過去作品の人気投票です。感想も書いていただくと嬉しいです。
「ドキドキした作品、興奮した作品は?」
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「人妻コレクション」