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あさぎ色の雨(4)

2022 05 14
「どうぞ。お部屋にいらっしゃいますよ」

午後2時を回るころだった。爽やかさと暑さが同居したような初夏の日差しの中を歩いてきた美枝子は、素肌に少し汗が浮かぶのを感じていた。

今日もまた、藤倉千香子は不在のようだ。前回と同じように、美枝子を出迎えたのは60前後と思われる家政婦だった。彼女に軽く会釈をし、人妻は一人で階段を上った。

自宅を出るまで、美枝子は随分と時間をかけた。「スカートを履いてきて欲しい」という正孝の言葉。それが妙に人妻の体奥に残り、夜眠る際も妖しく響き続けた。

夫にそんな風に求められたことはない。多忙だったせいか、夫はそもそも夜の生活も極めて淡白だった。だが、人妻はそれが普通の夫婦の姿と信じていた。

美枝子は、夫のことを誰かと比較するような経験を豊富に持った女ではない。唯一知る男性である夫は、妻の肉体を強く求めてくる男性ではなかった。

スカートを履けと言われたこともなければ、脚が綺麗だと誉めてもらった記憶もない。だからこそ、まだ20歳の若者から受けた命令に、人妻は初めて知る困惑に包まれた。

彼に説明した通り、ここ何年もスカートなど身につけたことはない。美枝子は夫が不在の自宅の寝室で、今日身につける服を慎重に選んだ。

家政婦はどこかに姿を消した。大邸宅とも言えるこの巨大な空間を、東京とは思えない静寂が支配している。階段を昇りきり、美枝子は短い廊下を歩いた。

「いいよ。勝手に入ってきて」
その部屋の前に立ったとき、向こう側から彼の声がした。美枝子がここに来たことに、既に気づいているようだ。

「こんにちは」
少しばかり鼓動が早まっている胸元を感じながら、美枝子はそっとドアを開けた。小声ながらも努めて明るい口調で言葉をかけたが、彼は人妻に背を向けたままだった。

純白のTシャツを着た若者が、真剣な表情で机に座って勉強をしている。開け放たれた窓の向こうからは、今日もまた午後の鳥のさえずりが少しだけ聞こえてくる。

「座って好きにしてていいよ」
机の上に広げられた英文で書かれた本を見つめたまま、彼は人妻にそう指示した。美枝子は藤倉正孝という若者のそんな態度に、どうにか慣れようとしている。

「そう、わかったわ」
美枝子はそう言うと、好きに使っていいと彼に言われた椅子に座り、バッグをベッドの上に置いた。そして、しばらくの間、若者の背中を見つめた。

世間では難関と言われている大学を目指しているという話を少しだけ藤倉の妻から聞いたが、美枝子は彼が今後の進路をどう考えているのか、まだ何も知らなかった。

なぜ高校を退学したのか。放校されたと言うが、何が起こったのか。若々しく、まだ成長を続けているような彼の体を見つめながら、美枝子はそんなことを考えた。

息苦しさを覚えるような沈黙が続いた。若者は人妻とまるで会話しようとはしない。美枝子は自分の仕事の意味を再び考えた。

「何か・・、私にできることがあればいつでも言っていいから・・・」
沈黙に耐えきれず、人妻はついそんな言葉を口にした。そんなことはこの若者には言う必要はないのだと、美枝子はすぐに後悔した。

若者は人妻の言葉を無視した。まるで聞こえなかったかのように、目の前の英文を見つめ、ノートへの書き込みを続けている。美枝子は肌に浮かんだ汗を再び感じた。

先刻よりも重い沈黙が訪れる。あんな軽薄な言葉を言うべきではなかった。この若者に、いったい自分に何ができるというのか。それさえも知らないというのに。

30分、あるいは1時間が過ぎたのかもしれない。美枝子はただ、椅子に座り、時折彼のことを見つめた。部屋に降り注ぐ日差しが少し弱くなった。

「本は持ってきた?」
唐突にペンを置き、若者は振り返って人妻のことを見つめた。美枝子の全身に恥ずかしさが入り混じった緊張が走り抜ける。

ダークグレーのワンピースは、会社員だった頃に着たことがある服だった。膝を少し隠す十分な長さを持ったスカートだが、美枝子にはそれさえも恥ずかしく思えた。

彼はしかし、人妻の不安とは別の言葉を続けた。

「読書が好きだって言ったじゃないか、昨日」
「え、ええ・・・。一応、持ってきたわ・・・・」
「そう。じゃあ、しばらく時間潰せるじゃない」

ただそれだけ言うと、彼は再び自身の勉強の世界へと入り込んでいった。人妻が困惑を抱えながら選んだ服について、若者は何も触れることはなかった。

昨日の言葉には、大した意味はなかったのかもしれない。美枝子は確かな安堵を感じながら、バッグの中から文庫本を取り出した。

最近読み始めた古い海外ミステリーを手にし、美枝子は肌に浮かんでいた汗がいつしか消え去ったことを知った。本を開き、人妻は静かにそれを読み始めた。

15分程度経った頃だった。彼のクールな声が美枝子に届いた。

「約束を守ってくれたんだね」
「・・・・」
「スカートさ。ちょっと立ってくれないかな」

回転椅子にもたれかかり、彼はすぐそこにいる人妻に視線を注いだ。危険を告げるように、鼓動が急激に高鳴るのがわかる。美枝子はすぐに答えることができなかった。

「いいから立ってよ、美枝子さん」
「立つって・・・・、ここに?」
「そう。どんなスタイルをしているか改めて調べるからさ」

ためらうことなく、彼はそう人妻に命じた。この部屋では彼に従うしかない。それが仕事の条件であることを、美枝子は改めて思い出した。

「いいわ・・・・、正孝君がそうして欲しいなら・・・・・」
文庫本をベッドに伏せて置き、美枝子は椅子から立ち上がった。ダークグレーのワンピースで細い肢体を包んだ人妻は、恥ずかしげに目を伏せて彼の前で立った。

「綺麗な脚だね、想像通り」
「そうかしら・・・・」
「でもスカートがまだ長すぎる。今度からもっと短いのを履いてきて欲しい」
「これより短いのなんて、私、持って・・・」
「買えばいいさ。僕が買ってやろうか」

椅子に座ったまま、若者は人妻の躰をじっと見つめた。そんな風に至近距離で男性に見つめられたことなどない。美枝子は喉の渇きを覚えた。

「今度は向こう側を向いて。お尻を見たいから」
「正孝君・・・・、お願い、こんなこと・・・・」
「美枝子さんの魅力を探してあげるだけだよ」

しばらくの逡巡の後、美枝子は彼に背を向けて立った。肢体の恥ずかしい部分に視線が注がれている気がする。背後から抱きしめられる予感が人妻を包み込む。

「いい体してるね、美枝子さん」
いつしか立ち上がった若者が、すぐ後ろにいることを美枝子は知った。

「何か想像してる?」
人妻の耳元で、彼がささやいた。

「別に・・・・」
美枝子は嘘をついた。

「ここで突然抱きしめられたらどうするんだろう」
「・・・・」

「抱きしめられて服を脱がされたら・・・・」
「声を出すわ・・・・」

「この部屋では僕が望む通りに振る舞うしかないって知ってるよね」
「・・・・」

「いいかな」
「やってごらんなさい・・・・」

人妻の白い肌に、再び汗が浮かんでいる。


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