FC2ブログ

法律事務所~君枝が犯した罪(1)

2008 12 01

ごうごうと音を立てて電車は鉄橋を通過していく。昨夜来の雨のせいか、その水面の眺めはかなり寒々と感じられた。揺れる車内のつり革に懸命にぶら下がり、一人の女性がそんな朝の風景を美しい瞳で追っている。


ウール素材のショートトレンチ、そしてシックなジャケットの下には、薄いベージュ色のボウタイブラウス。タイトスカートは形のいいヒップを隠し、そこから伸びる美脚は黒いパンストに包まれている。こげ茶色のボアブーツは、身長167センチという彼女の抜群のスタイルを一層際立たせているようだ。


整った顔だちが知性を感じさせるのは、ペールオーキッドのフレームが印象的なメガネのせいだけではない。29歳の人妻、樫又君枝は、確かに聡明で、そして性の魅力をも兼ね備えていた。


荒川を渡るこの鉄橋付近では、晴れた朝、富士山が見えることもあると、大学時代に友人から聞いた覚えがある。しかしその日の雨空では、到底無理な話であった。少しばかり失望している自分が、まるで子供のように思え、君枝は心の中で自嘲気味に笑ってみる。


11月も終盤。先週末から一気に冷え込んだためか、この朝の通勤電車にも厚手のコートを着込む客が多いようだ。次は北千住、というアナウンスが、満員ながら朝独特の静けさを維持した車内に響く。東京メトロ、地下鉄千代田線は、間もなく地上から地下へと進んでいく。


和夫との結婚に伴い、勤務先の大手都銀を退職して5年にもなる。通勤電車に乗るなど、随分と久しぶりのことであったが、それも4日目ともなれば、すっかり当時の感覚を思い出してしまう。


変わらないわ・・・・・・

満員の車内。椅子に座り熟睡する女性。昨夜からの疲労を明らかに引き摺っている若い男性。いやな会議でもあるのか、途方もない困難に直面したような表情を浮かべる壮年の男性。どれも昔と同じだ。ただ、以前と比較すれば携帯電話を覗き込む客の数が圧倒的に増えたような気もする。


ようやく北千住か・・・・・

駅に着いた車内は、乗り換え客で激しい人の流れが生じている。君枝の目指す駅、新御茶ノ水は、まだしばらく先である・・・。


その話が君枝のもとに届いたのは、1ヶ月ほど前、東大時代の友人、由加里と何年ぶりかに再会したときであった。君枝同様、由加里も勤務先を数年で退職、現在は小さな会計事務所で働きながら勉強をしていた。


「で、どうなの君枝、専業主婦ってやつは・・・・・」

「どうなのって、何がどうなのよ・・・・・」

「いいなあ、子供も産んで、毎日のんびりやってるんでしょう・・・」

「あのね、主婦をなめてもらっちゃ困るんですけど。これでも幼稚園のPTAとか大変なんだから・・・・」


「えっ、君枝がPTA!? 」

「ま、まあね・・・・。見えない流れでそうなっちゃってさ・・・・・」

「それ、おかしすぎるよ~。早速ゼミのメーリングリストに流さないと」

「やめてよ、由加里・・・・・・」


君枝と由加里は経済学部、同じゼミの専攻であった。なかなか会う機会はないが、それでも二人を含め、ゼミ仲間10名程度は、今でもメールでちょくちょく情報交換をしている。


由加里は仕事の休みを利用し、君枝の自宅からそれほど遠くない駅にまで足を運んでくれた。その駅ビルにあるレストラン街の一つで、二人は独特のコシがある食感が人気のパスタレストランを選ぶ。


未だ結婚をしていない由加里にとって、君枝の話はどれも興味深いものだった。幼稚園に通う娘がいて、しかもPTAにまで入っているなんて。同い年のその友人が、何か随分と先輩のように思えてしまう。


「駄目よ、私だけおばさん扱いするのは・・・・・」

由加里の気持ちを先回りするかのように、君枝がそう釘を刺す。30歳になろうとしている彼女たちの同期でも、子供を産んだ友人はまだほとんどいない。結婚、或いは離婚経験者こそ、何人かいるのだが。


「大丈夫、同い年じゃないの、私達・・・・・」

「ふふ、わかっていればよろしい・・・・・・」

「でも君枝、更に美貌に磨きかかってない? ねえ、恋でもしてる?」

「もう、由加里ったら・・・・」


冗談っぽくそう答えた君枝の脳裏に、一人の男の記憶が蘇る。夫ではない。2週間ほど前に自宅に来た夫の幼馴染、川上のことだ・・・。


 | HOME | Next »