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甘い蜜(1)

2016 07 06
「驚きましたよ」

西浦忠彦は、噴き出す汗を拭こうともせず、目の前の男にささやいた。

ささやいたつもりだった。

しかし、周囲にいる客が、少し迷惑そうな顔つきで、彼の座る席を見つめた。目の前に座る男が、のんびりとした様子でおしぼりで顔を拭きながら、忠彦のことを眺める。

「俺、アイスコーヒーでいいや。課長さんは?」
テーブルのそばに立つ年配の女性ウェイトレスに、彼は落ち着いた口調で注文した。

「僕も同じで」
忠彦は早口でそう言うと、再び視線を前に向けた。

とあるビルの地下にある喫茶店だった。午後3時すぎ。そろそろ梅雨が明けようという今日は、特に蒸し暑い。古いビル、そして年季の入った喫茶店は、妙に混雑し、居心地がいいとはいえなかった。

「ほんとなんですか、杉野さん」
「内藤のことかい?」

「そうに決まっているじゃないですか・・・・・・」
懸命に声を抑えながら、西浦忠彦は杉野という名の目の前の男に訴えかける。

45歳になる忠彦。目の前にいる杉野とは、もう長い付き合いになる。かれこれ15年にはなるだろうか。忠彦は、しかし、今日ほど杉野のことがじれったく思えたことはなかった。

「詳しく教えてくださいよ、杉野さん。なぜ内藤さんが突然辞めたのか」
「心配かい、課長さん?」

「えっ?」
「彼に何を暴露されるか」

隠そうともせず、杉野はあっさりとそう言った。まるで、狼狽する忠彦のことを挑発するかのように。

「変なこと言わないでくださいよ、こんな場所で・・・・・・・」
周囲に視線を配りながら、忠彦は消え入るような声で言った。

勤務先である市役所からは、遠く離れた場所だ。杉野が勤める室石工務店からも距離はある。二人が知る顔は、周囲にはない。

もっとも、別に一緒にいるところが見られても、おかしくはない関係だ。室石工務店は、市の土木事業の過半を、20年以上にわたり請け負ってきた先だった。

そして、西浦忠彦は、市役所建設部の土木課課長である。

「どうぞ」
二人の妙な様子に気付くこともなく、先ほどと同じウェイトレスがアイスコーヒーをテーブルに置く。

「課長さん、そう慌てなさんな」
ストローの袋をだらしなく破りながら、杉野は忠彦を見つめた。それは同い年である男、市役所という場で出世街道を歩んできた男を、どこか憐れむような視線でもあった。

「内藤は解雇したよ」
「えっ?」

「とある不正が露見しそうだったからな。経理部長の彼に責任をとってもらう形にした。とかげの尻尾切りってわけじゃないけどな」

おかしそうに笑う杉野に、忠彦が問い質す。

「とある不正って・・・・・・・・、まさか」
「心配しなさんな。市役所がらみじゃない」

「しかし・・・・・・・」
「万一それが露見した場合、既に解雇したやつに全ての責を負ってもらう。内藤はえらいぜ。全てそれを承諾した上で、解雇されることに同意したんだからな」

「・・・・・・・・」
「もっとも、再就職先は世話してやったし、それなりの金も裏で払ってやったさ」

「じゃあ、既に・・・・・・・」
「○○市の工務店で働き始めてる。同じ経理部長というポジションでね。悪くない話だろう」

杉野がうまそうにアイスコーヒーをすする姿を、忠彦はぼんやりと見つめる。

「口止め料ってわけだよ、課長さん。そんなに暗い顔するなって」
「・・・・・・・」

音を立ててコーヒーを吸いながら、杉野が一転して低い声でつぶやく。

「過去の出来事を蒸し返すようなことをしたらどうなるか。それは内藤が一番よくわかってる。課長さんだって同じだろう?」

忠彦の首筋を、冷たい汗が流れた。


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