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6本の腕(1)

2020 05 01
九州への出張が決まったとき、美智代は密かに心を躍らせた。

「尾野さん、なんだか嬉しそうですね」
「そう?」

部下である山井に声をかけられ、美智代はノートPCに注いでいた視線を彼に向ける。彼女に見つめられ、入社5年目の彼は少し照れた様子で言葉を続けた。

「九州の出張はこれまでなかったですよね、確か」
「そうね。なかなか代理店を立ち上げることができなかったから」

「この話がまとまったのは尾野さんの交渉力のおかげですから。部長が出張指示されたのも当然ですよ」
「挨拶だけでいいから、今回は君も行ってきなさいって」

「部長の親心ですよ。尾野さん最近ずっと忙しかったから」
「そうかしら」

尾野美智代が大学を卒業してこの会社に入ったのはもう20年ほど前になる。就職氷河期ど真ん中の世代であり、採用が決まったのは大学卒業が近づいている時期だった。

防災設備に関連したサービスを提供するこの会社は、従業員がおよそ300名。今では大手企業と言ってもいい規模にまで成長している。

学生時代に専攻した分野とは直接の関係はなかったのだが、当時の美智代は周囲の友人たちと同様に、文字通りなりふり構わず、あらゆる企業にアプローチをかけていた。

そして、今の会社との縁を、美智代はようやく見つけたのだった。

「いいじゃないですか、九州で少しゆっくりしてくれば」
「山井君、そうはいかないわよ」

机上のパソコンに視線を戻した後も、二人は軽い調子で会話を続けた。

「時間に余裕があるんじゃないですか、今回の出張は」
「ふふふ、実はね」

笑みを浮かべる美智代の表情には、43歳の女性とは思えない瑞々しさと、人妻であることを教える確かな色気が漂っている。

「やっぱり部長の親心ですよ。それとも」
「えっ」

「部長、尾野さんが好きですから」
「山井君その発言は完全にアウトね」

「あ、いや、その・・・」
「スケジュール的には楽かもしれないけど、一応出張ですからね」

「橋本さんも同行されるんですか?」
「そう聞いてるわ」

「それは残念ですね。色々大変そうだ」
「山井君、エクセル今送ったから、それ使って前回みたいに明日の会議用にパワポ資料用意してくれる?」

会話を打ち切るように、美智代は真面目な口調で山井に伝えた。しかしその瞳には、優しさと感謝の色が浮かんでいる。

「3分でやります」
「言うわねえ」

入社当時、美智代は社内でそれほど目立つ存在ではなかった。同期入社は少なかったが、美智代は自分から周囲にアピールするようなキャラクターではなかった。

しかし、堅実で信頼のおける仕事ぶりは、やがて社内でも確かな存在として、各部署の人間に覚えてもらえるようになっていく。

それにつれて、美智代は別の意味でも社内で評判が立つようになった。

それは彼女が持ち合わせた清楚な美しさによるものだった。

派手さはなく、突出して目立つルックスの持ち主でもない。しかし美智代には、上品さを兼ね備えた、凛とした雰囲気がいつも漂っていた。

整った顔立ちは、かつての日本人女性が持っていたのではと思わせるような、どこか古風で、しかし、妖しげな色気をも持ち合わせていた。

そして、美智代は魅力的なスタイルの持ち主であった。長身でスリムな肢体は、控えめながら、全ての男性たちを惑わせるような性的な曲線をも備えていた。

「あんな可愛い子いたっけ」
「飲み会とかあまり来る子じゃないらしいからな」
「いかにも真面目って感じだけど」
「学生時代は歴史を勉強してたらしいぜ」

様々な噂が男性社員の間で流れる中、美智代は確実に実績を積み上げ、それとともに社内でのポジションも着実に上位に昇っていった。

幸いなことに、この会社は女性を管理職に積極的に登用するという方針を打ち出していた。

43歳になった今、美智代は「マネージャー」と言うタイトルの、いわば課長職として、地方の代理店を統括する部門の責任者として忙しい日々を送っている。

「九州には遺跡が色々ありそうですね」
慣れた手つきでキーボードを叩きながら、まだ上司との会話を続けたいように山井がつぶやいた。

「そうね」
素直に言葉を返し、美智代は動かしていた手を休める。そして陽光に包まれた窓の向こうの風景に視線を向けた。少しの間、何かに思いを馳せ、想像するかのように。

出張で訪れる地で、自分が何を教えられることになるのか。このときの人妻は、もちろんまだ何も知らない。

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