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6本の腕(10)

2020 07 06
何かを隠すように早足で歩いていく上司を見つめながら、橋本が動くことはなかった。やがてエレベーターが閉まり、上司の姿は見えなくなった。

自分より年下の後輩でありながら、橋本にはやはり尾野美智代は上司であった。そんな風に会社の上下関係に支配されている自分を、彼は少し面白く感じた。

「所詮俺も古い会社人間ってわけか」

仕事はできると評価され、順調に出世を重ねていた橋本。しかし、女性関係で何度もトラブルを起こし、結局それが原因で中枢から外れることになった。

同期に追い越され、もはや先は見えていると言っていい。47歳になる彼は、しかし転職するつもりなどなく、この会社の旨味をとことんまで吸い尽くすつもりでいた。

無難に働いていれば、どうにか給料はもらえるという、今の時代には甘すぎる会社だ。それに社内、社外を問わず、女性と知り合う関係も少なくない。

離婚し、独り身となった彼は、まだまだ人生を楽しむつもりだった。そんなときに目の前に現れたのが、自分の上司になった尾野美智代だった。

以前からその存在は知っていたが、浮ついた話は一切なく、仕事一筋という評判の彼女に、橋本はこれまでアプローチを仕掛けたことはなかった。

だが、上司として近い存在になった彼女に対し、やがて橋本は自分の考えを変えた。それは今回の出張で一層強いものになった。

昨夜、代理店の高島に自分の体に触らせることを許した姿は、橋本を激しく興奮させた。

ここに宿泊するのは今夜だけだ。彼は何とか今夜、美智代に接近し、あわよくばその人妻の体を自分のものにしたいと望んでいた。

夜は長いのだ。どんなことだって起こり得る。

今日の午後、彼はそんな望みを抱きつつ、美智代の行動を密かに追っていた。

「あの様子ではあそこまで尾行したことには気づいていないようだな」

再びロビーの椅子に腰を沈め、彼は夕刊を手にした。広いロビーにはいつしか人の数が増え、その賑わいが橋本の大胆な行動に安堵を与えている。

午後、橋本はあの山間の場所を一人で訪れていた。雲崎峡という場所だけを頼りに、彼は昼過ぎにはそこに到着し、駐車場で一人美智代を待った。

タクシーで訪れた彼女の姿を、彼は林の奥からそっと観察していた。想像通り、一人で来た人妻は、これも想像通り、美しい姿であった。

タクシーを降り、運転手と親しげに会話を交わした後、彼女は山道へと姿を消した。彼はその後を追うことも考えたが、露見してしまう危険が高いと判断してやめた。

その代わり、彼は駐車場で待機していた美智代のタクシー運転手に声をかけ、人妻の様子や向かった先のことを聞いた。

「私がここに来て色々聞いてきたなんて、彼女に話さないでくださいよ」

彼は運転手に金を渡し、そう要請した。その運転手は相当美智代のことを気に入っていたので、橋本は彼が全て話すのではないかと少し心配していた。

だが、どうやら彼はプロだったようだ。

山奥にある風変わりな彫刻のことを聞いても、橋本にはピンと来るものはなかった。目新しい情報を得ることもなく、彼はすぐにその場を去り、このホテルで人妻の帰りを待つことにした。

「さて、これからどうすべきか」

夕刊を広げ、地元の市会議員が不正を働いたというありふれた記事を見ながら、彼は今夜のことを考えた。今頃、美智代は部屋でシャワーを浴びているはずだ。

一瞬、彼は強引に押しかけることを考えた。だが、それはあまりに無謀に思えた。夕刊を広げたまま、彼はシャワーの音を、そして人妻の濡れた裸体を想像した。

数多くの女性を抱いてきた彼は、しかし、その想像だけで息苦しいほどの興奮を感じた。

「あの薄い壁なら、シャワーを浴びる音がはっきり聞こえるはずだ」

昨夜はそれを意識しなかったが、今であれば、隣室の美智代の気配がはっきり聞き取れるかもしれない。橋本は、自分の部屋に戻ることを真剣に考えた。

しかし、その欲情も彼は抑え込んだ。俺はそんな行動で満足を求めるレベルの人間じゃない。彼にはそんな自負があった。

それに、もっと別の方法で美智代をものにする方法があるようにも感じていた。

「そのうち降りてくる。夕食はまだという言葉に嘘はないはずだ」

あの口ぶりでは、しかし一緒に夕食に行くことを受け入れることはないだろう。であれば、俺は一体どうやって今夜の望みを果たすというのか。

結局、姑息で犯罪者のような方法しか残っていないのではないか・・・。

考えに集中しようとしたとき、彼はエレベーターの扉が開き、美智代の姿がそこにあることを知った。思わず彼は視線を逸らし、新聞で自身を隠した。

オフィスでは見たことのない、白っぽいワンピースで身を包んでいる。ラフな雰囲気のその服装は、橋本がまだ知らない上司の別の魅力を教えていた。

ソファには他に何人もの客が座っている。フロント付近、そしてロビーにも多くの人がいた。彼女がここにまだいる自分のことに気づいたのか、橋本には確信は持てなかった。

気づいた上で、敢えて無視したのかもしれない。やはり一人で最後の夜を楽しみたいってことか。

ホテルから出ていく美智代の姿に、橋本も慌てて立ち上がった。足早にロビーを抜け、彼女を追う。ダメもとでもう一度夕食に誘うか・・・。

橋本は自分がまるで女性経験のない若者になったように思えてきた。

美智代は彼から逃げるように、ホテル外のタクシーにすぐに乗り込んだ。

「やばい・・・」

橋本も慌ててタクシーを捕まえた。

「あそこにタクシーがいるでしょう。あれを追ってください」

これでは盗聴とさして変わらないぞ。矛盾に溢れた自らの行動に、橋本は思わず笑みを浮かべた。

「自分でもなんでこんなことしてるのか、よくわからないんですけどね」

自嘲したように話す橋本に、運転手は興味深そうに答えた。

「綺麗な女性が一人で乗りましたよね」

すぐ背後で待っていたせいか、その運転手は美智代の姿を見ていたようだ。

「ええ。綺麗な女性です」

そして、長い夜が始まった。そのときの橋本が想像した以上に、それは長い夜となった。


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