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6本の腕(15)

2020 09 11
「お久しぶりです。半年振りですね」

東京のこの辺りに、山井はほとんど足を運んだことはなかった。会社から、自宅とは全く逆方面に地下鉄を何駅も乗り継いだこの場所には、今夜初めて来たのかもしれない。

誘ったのは山井のほうだった。だが、この駅を、そしてそこから10分程度商店街を歩いた場所にある居酒屋を指定したのは、山井の前に座る「彼」のほうだった。

「そうだな」

山井の問いかけに答える落ち着いた、しかし横柄なその口調は、以前とそれほど違うものではなかった。だが、彼の表情には以前にも増して、濃い「陰」が存在していた。

「すみません、今日は突然呼び出したりして」
「いや、いいんだよ。どうせ暇だからな」
「お元気そうですね」

彼の言葉を誘うように、山井は思いとは矛盾する言葉を口にした。彼は生ビールをうまそうに喉に流し込むと、山井の顔に向かって笑みを浮かべた。

「見ればわかるだろ、山井君」
「えっ?・・・」
「俺がどんな生活を送っているかってことぐらい」

黒の厚手のジャケット、白いワイシャツに紺色のスラックスという彼の格好は、くたびれた感じではなく、普通の会社員といっても通用するものだった。だが「陰」はやはり、隠すことができなかった。

「転職されたんですか?」
半年前、突然会社を辞めた先輩社員に、山井はストレートに聞いてみた。

「今は働いていない。そろそろ金が心配だけどな」

しばらくの間、二人は黙ったまま、テーブルに並んだつまみを口に運び続けた。どう切り出そうか迷っている山井を観察し、彼は再び笑みを浮かべた。

「何か聞きたいことでもあるんだろう、俺に」
「えっ?」

「まさか俺のことが心配になって今夜呼び出したわけでもあるまい」
「え、ええ・・・・」

「何が聞きたいのか、当ててやろうか」

10人も入れば満席の狭い店だが、午後7時を回った今、既に他のテーブル、そして短いカウンターは席がほぼ埋まっている。

冬も終わりを告げ、春めいた日差しが感じられるようになった。それでも夜はまだまだ冷えるが、彼は構うことなく生ビールを飲み、追加のつまみを頼んだ。

「今夜は君のおごりでいいかな」
「え、ええ、最初からそのつもりでしたから・・・・」
「その代わり、山井君が知りたいことを教えてやるさ」

やはり、この男の妙な存在感に勝つことはできない。山井は半ば諦め、彼の言葉を待つことにした。だが、その気楽さが、ある種の勇気を若い彼に与えた。

「尾野さんのことなんです」

それは最初からわかっているとでもいうように、彼は一瞬山井と視線を交わし、そしてテーブルを見つめた。「陰」の気配が、音を立てて揺れたように思えた。

「尾野さん、最近すっかり変わってしまったんです」
「元気かい、尾野マネージャーは」
「元気は元気なんですが」

山井は、上司である尾野美智代の最近の姿を思い浮かべた。マネージャーというタイトルは変わることなく、以前と同じように尊敬すべき上司としての姿を見せている。

何が変わったというのか。うまく説明できないが、最近の美智代は滅多に笑顔を浮かべなくなった。より厳しい態度で仕事に臨み、冷たい雰囲気が感じられる瞬間が増えた。

鉄の女とでも形容したくなるような、そんな厳しい姿勢は、以前の美智代には無縁なものだった。そのクールな上司の態度を、山井は自分なりにこんな風に分析していた。

尾野さんは何かを忘れるために、こんな風に仕事に没頭しているんじゃないか、と。

その秘密を探り出すために、彼は今夜、目の前にいる男を呼び出したのだ。

「相変わらず綺麗だろう、彼女は」
彼の言葉に、山井は少し戸惑いながらも、小さくうなずいた。

「どう変わったのか知らないけどな、美人な上司であることに変わりはないだろう」
「それは・・・・」
「前よりももっと綺麗で色っぽくなった。違うか?」

その事実には確かに気づいていた。だが、彼の指摘を耳にするまで、山井は自分がそう感じていることを自覚してはいなかった。

この男のいう通りだ。尾野さんは妙に厳しく、クールな雰囲気が目立つようになっただけではない。その美貌は更に磨きがかかり、女としての色気が高まっている。

「教えてやろうか、その理由を」
「・・・・」
「それが聞きたくて今夜、俺を誘ったんだろう」

店のドアが開き、常連らしき男性が一人、店に入ってきた。パチンコ店かゲームセンターの賑やかな音が一瞬聞こえ、閉められたドアの向こうに遠ざかっていく。

山井を追い込むように、橋本は言葉を重ねた。

「抱きたいんだろう、人妻上司の尾野さんを」


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