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波涛の彼方(3)

2010 07 01
夫は冗談を言って驚かすような人間ではない。朋子はしかし、そう信じたくなるほどに、隆夫が口にした言葉を受け入れることができなかった。

夫の研究は順調に進捗しているはずだった。学会への参加や資料収集のための地方出張を重ね、熱心に取り組む彼の姿に、以前と変わった部分はなかった。

「あなた、辞めるっていったい・・・・・」
「実はある高校から教師をやらないかと誘いがあってね」
「高校、ですか?」

既に何らかの決意を固めた様子の隆夫に、朋子はそれでも聞かずにはいられなかった。大学の職をなげうつほどに、それは魅力的なオファーだったのだろうか。

「瀬戸内の小さな島にある私立高校だ」
「・・・・・・」

「学生時代の知り合いがそこで教師をやっている。彼が来月に都合で退職することになって、その後任にどうだっていう話が来たんだ」
「でも・・・・、あなた、大学での研究は・・・・・」

「続けるにはうってつけの環境なんだよ。あの海域には研究対象となる生物が多く住んでいる。海に囲まれた島であれば、東京にいるよりもはるかに理想的だ」
「・・・・・・」

「幸いなことに、大学のほうはいつでも戻ってきてくれと言ってくれている。どれぐらいそこで生活することになるのかわからないが、先行きの心配は何もない」

「そこは、どんな島なんでしょうか・・・・・」
珍しく多弁な夫に圧倒されながら、朋子は質問を口にした。

「小さな島だ。観光資源も何もない、寂れた島と言ってもいいかもしれない。人口は1000人程度で過疎化が深刻だとも聞いている」
「1000人・・・・・・・」

いったいそれがどんな規模なのか、朋子にはイメージを掴むことができなかった。だが、東京とは明らかに別世界のはずだ。隆夫の説明を頭の中で繰り返しながら、朋子は1つの疑問を抱いた。

「あなた、でもそんな島に私立高校があるんですか?・・・・・」
朋子のその指摘を、隆夫は最初から予見していたようだった。

「普通の高校じゃないんだよ、朋子」
「どういうことですか・・・・」

「全寮制のその私立高校は、全国から生徒を集めている。いわゆる問題のある生徒が、そこに送られて来るんだよ」
「問題のある生徒・・・・・」

「暴力的な生徒、何らかの理由で退学してしまった生徒、不登校になった生徒、まあいろいろだ。そんな子供を持つ親御さん達が、いわば最後の頼みとして、その高校にすがってくるそうだ」
「・・・・・・・」

「周囲を海に囲まれた全寮制の高校だから、生徒達に選択肢などない。3年間をそこで過ごす以外にね」

そんな高校が存在することを、朋子は昔、どこかで聞いたことがあった。それが、隆夫の話す瀬戸内海に浮かぶ小島にある高校かどうかは思い出せないが・・・・。

「来月には引越しすることになる。高校側は早く来てくれと言っているからね。住む場所などは、全部向こうで準備をしてくれるそうだ」

隆夫の言葉が、ダイレクトに耳に届かない。朋子は、考えなければならないことが、あまりに多くあるような気がしていた。

「どうした、朋子。何か不安か?」
「い、いえ・・・・・・、ただ、突然のことでしたから・・・・・・」

「僕だって同じだ。東京以外で暮らすのは、君と同じように僕にとっても初めてだ」
「え、ええ・・・・・・」

「田舎での生活も悪くないだろう。環境も研究にとっては最適だ。ただ、僕が今回の決断をしたのは何も研究のことだけを考えたわけではないが」
「・・・・・・」

「僕はね、その高校で教壇に立つということに、魅力を感じたんだ」
「その高校に、ですか?・・・・・・」

「いじめ被害にあって引きこもってしまったような生徒も多くいるらしい。彼らにだって、ちゃんとした教育を受けたいという欲求は必ずある。僕はそれにしっかりと応え、彼らに希望を与えてやるつもりだ」

そんな風に熱を帯びた調子で話す夫の姿を、朋子は初めて見た。いじめられた生徒を救うという部分に、夫が強く惹かれているのは明らかだった。

理由は何であれ、夫は既に決意しているのだ。自分はただ彼を信じてついて行くしかないことが、朋子にはよくわかっていた。

その夜、朋子は一人でパソコンに向かい、地図上でその島を探してみた。瀬戸内海には、想像以上に多くの島が存在していた。

やがて、朋子はその小さな島を見つけた。そこで自分は暮らすことになるのだ。ほんの数時間前には考えもしなかった事態に、自分は巻き込まれようとしている。

松木島と記載された島を見つめながら、朋子はなぜか湧き上がってくる不安を抑えこむことができなかった。




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