FC2ブログ

終着駅(5)

2012 01 24
その夜、繁樹が帰宅したのは午後11時前だった。

珍しくそんな早い時間に家に戻った理由は、前夜妻を殴打した自責の念からか、或いは、その日の午前、愛人が妻に対し電話をかけたという事実を知っていたからか。

今の京子に、しかし、そんな事情はどうでもよかった。

「今夜は早いのね」

妻の一言に、繁樹は言葉を返すことなく、目前を素通りする。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、陶酔を求めるようにその中の液体を勢いよく喉に流し込む。

大柄な体をソファに沈め、なおも缶を握り続ける。何かを試すような冷たく、辛らつな視線は、とても妻に向けられたそれとは思えない。

それどころか、昨夜の己の行為を恥じている気配は、そこには全くなかった。

「話をしたわよ」
ダイニングテーブルの脇で立ったまま、京子はクールな口調で言った。その手には携帯がある。その日の午前そこに届いた、あの女の声が京子の脳裏に蘇る。

あなたが何を繁樹さんに言っても、私は絶対に別れない・・・・・・・

怒りが何故か、京子におかしさを与える。笑わずにいられようか。あまりに無知なあの女のことを同情し、京子は笑みを浮かべる。

「何がおかしいんだ?」
「別に・・・・・、思い出し笑いよ・・・・・・」

目の前にいる夫の欲情は、既にあの女の肉体に向けられているのだ。それを隠し続けてきた繁樹を見つめ、京子はあの「決意」を思い出す。

「あなたがあんな彼女に引っ掛かるなんて思ってもいなかったわ・・・・・・・」
「・・・・・・・・」

「浮気するならもう少しまともな女性を選んでほしかったけど・・・・・・」
「京子・・・・・・、お前には関係ないことだろう・・・・・・・」

妻に対し、そこまでの言葉を堂々と口にしてしまう夫。過去に抱いたはずの彼への愛情が、完璧に消え去っていることを、京子は感じる。

「確かに関係ないかもしれないわ・・・・・・、でも、私にだって権利はあるでしょう・・・・・・」
「権利?」

「同じことをする権利よ・・・・・・・・・」
「何が言いたいんだ、京子・・・・・・・・」

かすかに戸惑った様子で、繁樹はビールを一気に飲み干す。次のビールを求めることもなく、アルミ缶を握り、その形状を変形させる。

「私が別の人と寝る権利よ」
大胆な言葉をいかにもあっさりと言い切ってしまった自分に、京子は妙な興奮を覚える。

「何だって?・・・・・・、お前、気でも狂ったのか?・・・・・・・・」
ソファに腰を沈めたまま、繁樹がおかしそうに笑い出す。あざけりと軽蔑の気配が漂った、最も人をいらつかせる類の笑いだ。

「別の人と寝るだと? お前、そんなこと口走っていいと思ってるのか?」
「私、本気だから・・・・・・、冗談言ってるわけじゃないわ・・・・・・・」

「お前、そんなこと許されるはずないだろう・・・・・・」
「あなたには関係ないこと。でしょう?」

一体私は何を言っているのか。これまでの人生において京子を全うな道に導いてきた理性とやらが、そんな警告を発する。それを感じながらも、京子は撤回しようとはしない。

酔狂な態度を、私は生まれて初めて選択しているのかもしれない。しかし、そうすべきなのだ。結婚後、ずっと耐え続けてきた自分を解放する必要性。京子はそれを感じている。

貞淑な人妻を演じ続けてきた自分に、京子は何か報酬を与えてやりたい気分だった。それが今なのだ。たとえ、そんなことができる確信が全くなくても・・・・・・・。

「無理だな・・・・・、京子、誰か知ってる相手がいるわけじゃないんだろう・・・・・・・・」
「さあ・・・・・、どうかしらね・・・・・・・・・」
「お前を抱いてくれるような男なんているわけがない・・・・・、38歳の子持ちの主婦だぜ・・・・・」

繁樹がどこまで本気でそんな言葉を言っているのか、京子には判断できなかった。真意のようにも響くし、見知らぬ男に妻を寝取られることへの強烈な嫉妬心があるようにも聞こえる。

「そんなこと、試してみなきゃわからないわ・・・・・・・・・」
「試すって、どうするつもりだ・・・・・・、自分が何言ってるのかわかってるのか?・・・・・・・」

「これでも冷静なつもりよ、それに・・・・・・・・」
「な、何だよ?・・・・・・・・」
「私、変な男に体を許すつもりなんてさらさらないから・・・・・・、あなたと違って・・・・・・・」

繁樹に背を向け、京子は足早にその場を去った。自分が言い切ったことへのイメージを全く抱けぬまま、京子は足を速めた。

別の男と寝る。いったい私は何を言っているのか。私がどんな男を知っているというのだ。再び、理性が京子を激しく責める。それを覆す強い情念も失い、京子はそのドアを開ける。

ベッドの上で、萌菜が膝を抱えて座っている。


(↑クリック、凄く嬉しいです)

※次回1月28日(土)更新とさせてください。延期となり申し訳ありません。
Comment
No title
なんともいえない緊張感。
ぞくぞくします。
そしてこれからのことを思うと
すごく興奮してきてしまいます。

管理者のみに表示