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終着駅(8)

2012 02 02
なぜその場所を自分が目指しているのか、京子にはその問いかけにきちんと向き合う自信がなかった。

繁樹とは社内結婚である。大手電機メーカーの本社があるその駅付近に行けば、どんなリスクが想定されるのか、京子には勿論想像できた。

かつての同僚の多くが、まだ本社勤務のままである。男性、女性を問わず、京子のことを知っている人間に遭遇する可能性は大いにある。

そんなとき、果たして私は自分自身の行動をどう説明すればいいというのか。

「夫が浮気ばかりしているから、私もたまには同じことをしようと思って。誰か、夫よりまともな男に一晩付き合ってもらいたいだけなんだけど」

馬鹿げている。12歳の娘を持つ母親として、そんな奔放な言葉を口にする女性がいったいどこにいよう。

しかし、京子に目的地を変えるつもりはなかった。同僚たちに会ってしまうのなら、別にそれでもいい。京子の心の奥底には、そんな危惧を上回るはっきりとした意志が存在していた。

自分が誰か別の男と一緒にいる姿を、夫に見せつけてやるのだ。

そんなことをしても、例えば嫉妬心にかられ、繁樹の妻への関心が再び高まるなどとは、京子は想像していない。もはや私たちの関係は修復不可能なのだ。

別に、繁樹との距離を縮めたいからそんな意志を抱いたわけではなかった。京子はただ、自分が別の男といる光景を、繁樹に披露したかった。

まさにそれが復讐行為だと思った。私に関心を抱く男性は、まだちゃんと存在するのだ。あなたが裏切った対象は、まだそれだけの価値を伴った女性なのだ。

京子はそれを繁樹に知らしめたかった。別の異性に配偶者を奪われるという、強烈な屈辱感とともに。

総合駅として数年前から大規模な再開発が進んでいるその駅は、京子がかつて通勤していたころと比較し、大きく様変わりしていた。

近代的な高層ビルが駅付近に立ち並び、駅構内を歩く人の数も以前よりはるかに増えたようだ。

駅に到着した京子は、その雑踏の中に繁樹がいることを想像し、鼓動を早くさせた。

金曜の午後6時を少し回ったところである。何かから解放され、夏の暑さの中、自由を満喫するとでもいうような、華やいだ雰囲気が周囲に溢れている。

京子は感じる。10年以上自分は家庭に閉じこもってきたというのに、世間ではこんな楽しげな空間が当たり前に存在していたのだと。

自分が一人、どこかにずっと置き去りにされてきたいう、妙な被害者意識が京子を包む。でも、いいのだ。今夜だけは、私自身もまた日常から解放されるのだから。

果たしてどこに行けばいいのか、京子に明確なプランはなかった。自分から誰かに声をかけることなど、到底できるはずもない。

夏の残照がはっきり残っている時間帯だ。繁樹はまだオフィスにいるのだろう。或いはあの女との逢瀬の時間をこれほどに早く設定しているかもしれないが。

京子は駅から少し歩いた場所にあるファミレスに入り、時間をかけて夕食をとった。周囲に京子の知った顔が現れることはなかった。

レストランを出た京子がしばらく雑踏の中を歩いた後、洒落たブティックや外国料理店が並ぶ路地地下にある、とあるバーに入ったのは午後8時過ぎのことだった。

カウンター席の後方に立食用のテーブルが数個置いてあるだけの、狭い店である。60年代のモダンジャズが静かに流れる店内には、まだ数人の白人客しかいない。

その店を以前から知っていたわけではない。しかし、無意識のうちに階段を下り、京子はその店のドアを開けていた。

カウンター奥に独り座り、京子はこんな場所に来てしまったことを少し後悔した。店内には女の体を求める男が集まるような、そんな欲情的な雰囲気があった。

だがそれこそが、私の望んだことではないのか。京子はそう自問しながらも、すぐに確かな意志を示す。

そんなレベルの低い男を私は探しに来たわけではないのだ。夫が選んだ若い女のような、あんな下劣なタイプなんて・・・・・。

身勝手な要求を自分が抱いていることを感じながら、京子は努めてクールな姿勢を貫いた。目の前にいる若くハンサムなバーテンダーに、京子はファジーネーブルを頼んだ。

久しぶりに口にするアルコールが、京子の乾いた喉を熱く潤していく。少しずつ客が増えてくるのを感じながら、京子は目の前だけを向き続けた。

誰かがこちらに関心を寄せるような気配はまるでない。所詮、女性としてこんな場所に来ることが許されるような年齢は、とうに過ぎ去っているのだ。

白い肌が剥き出しの両肩を隠したままのストールに手を置き、京子は思う。このまま何杯かのアルコールを注文し、終電までいればいい。そして、萌菜のもとに帰ろう。

そんな現実的な考えに京子が浸り始めたときだった。その声は、唐突に京子の背後からかかった。

「奥さん・・・・、じゃないですか?」


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