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終着駅(9)

2012 02 07
それはあまり耳にしたくない声色だった。何年ぶりかに解放されようとしている特別な夜であるなら、それはなおさらだった。

「奥さん、久丘君の奥さんでしょう?」
繰り返されるその声には、意外さと同時に、どこか心躍るかのような本音が浮かび上がっているように聞こえる。

こんな場所で人妻、久丘京子と遭遇する幸運に感謝しているかのように・・・・・。

緊張とためらい、しばらくの逡巡の後、京子は手にしていたグラスを置き、ゆっくりと後方を向いた。既に声の主が誰なのか、京子には想像がついていた。

こんなリスクが存在することを私は覚悟していたはずだ。京子は自らにそう告げる。だが、目の前にいる真鍋義明の薄汚い姿を見れば、自らの行動を責めないわけにはいかなかった。

ダークブラウンのスーツ、そして高価そうな光を湛えた腕時計。決して汚れているわけではなく、だらしなくスーツに皺が遊んでいるわけでもない。

しかし、それは薄汚い姿だった。何も知らぬ人間には、50代半ば、大企業の役員クラスに映るのかもしれない。だが、京子にはその「匂い」が感じ取れた。

この男がどうしようもなく薄汚い人間であることを示す、その腐臭だ。

「まあ・・・・・、真鍋部長・・・・・・・・・・」
心に抱いた嫌悪感が表情に浮かんでることを感じながらも、京子は努めて明るい口調でそう言った。自分がこんな時間にこの店にいることが、決して不自然でないことを示そうと。

しかし、その男は京子のような主婦をはるかに上回る狡猾さを兼ね備えていた。そうでなければ、企業社会の中で生き残っていくことはできないのだ。

繁樹と結婚する前、同じ会社に勤務していた京子だが、当時真鍋と知り合う機会はなかった。この男のことを知ったのは、結婚後、かなりの年数が経過した頃だった。

繁樹の上司として、彼はある休日に京子の家を訪れた。昼過ぎに到着した彼は、午後9時過ぎまで滞在し、たっぷりとアルコールを飲み、遠慮なく振舞った。

それはもう3年ほど前のことだろうか。ただ一度会っただけだというのに、京子は真鍋のイメージを強烈に記憶していた。

酒、たばこのにおい、独特の低くくぐもった声、好色そうな目つき。そして、部下の妻のヒップをさりげなく触ったあの卑猥な右手。

「どうしたんですか、奥さん、こんな時間にこんなところで?」
過去の記憶を振り払おうとしている京子に対し、真鍋は弾んだ声で問いかけてくる。

「い、いえ・・・・・・、今夜は少し・・・・・・・・」
「どなたかと待ち合わせ、ですか?」

「え、ええ、まあ・・・・・・・・」
「久丘君じゃないでしょう。彼は今日は随分早く退社したようですからな」

「学生時代の友人とここで会う約束をしてるんです・・・・・・・」
「ほう、そうでしたか・・・・・・・」

真鍋はどこかおかしそうにつぶやきながら、カウンターの椅子に座った京子の姿をじっと見つめる。ワンピースに隠された人妻の裸体を想像するかのような視線で。

「お隣、座っていいですかな」
「・・・・・・・」
「いや、お友達がいらっしゃるまでですよ、奥さん」

強引な様子で真鍋は京子の隣に腰を下ろし、慣れた様子でビールを注文する。どうやらこの男は1人で来店したらしい。バーテンダーの態度から、真鍋がこの店の常連であることがわかる。

「もう随分飲んでらっしゃるようですねえ」
「い、いえ、まだ1杯だけです・・・・・・」

「そうでしたか・・・・・・、おい、こちらにもう1杯同じのを頼むよ」
「あの・・・・・・、困ります・・・・・・・・・」

「いいじゃないですか、奥さん。金曜の夜、少しは羽目を外したくてここにいらしたんでしょう?」
「・・・・・・・・・」

平静さを保つことができなかった。自らの秘めた決意が、この男に全て見透かされているようで、京子はいらついた。待ち合わせをしているなどという嘘をついたことを、京子は激しく悔やむ。

「結婚後ずっと家庭に入ってお嬢さんを一生懸命に育ててきたというのに」
「・・・・・・・・」
「旦那のほうは好き勝手にやってますからなあ」

くっくっくっ、とおかしそうに笑いながら、真鍋はビールをうまそうに喉に流し込む。冷房が効いた店内には、最初からいた白人客以外にも、会社員風の客が何人か増えていた。

この男は私達夫婦の危機を知っているのだろうか。京子は思い出す。真鍋には離婚歴があり、部下の複数の女性に簡単に手を出すことで悪名高いことを。

そんな噂を、京子は以前、会社時代の知り合いに聞いたことがあった。京子の脳裏に、あの携帯電話の向こう側から届いた若い女の声が唐突に蘇る。

繁樹とこの男、真鍋が一緒に女遊びをしている風景を京子は想像する。全て知っているのかもしれない。真鍋は部下の浮気相手のことも、全て知っているのだ・・・・。

「もうほとんど家には帰っていないんじゃないですか、久丘君は」
妻である京子の苦しみを無視するかのような安易なトーンで、真鍋はそう口にする。そこには繁樹を擁護するかのような雰囲気が漂っていた。

「真鍋さん・・・・、あの人のこと、何か知ってるんでしょうか?・・・・・・・・・」
「そりゃ直属の上司ですからな。仕事ばかりじゃなくプライベートなことも・・・・・・・」
「では、私がどんな状況にいるのかもご理解いただけるはずですが・・・・・・・」

思わずきつい口調になった自分に、京子はしかし、驚くことはなかった。隣にいるこの男のことを、京子にはどうしても受け入れることができなかった。

「奥さん、久丘君もいろいろと大変なんですよ」
「えっ?・・・・・・」
「奥さんにだって、どこか至らぬところがあったところがあったのかもしれない」

真鍋の言葉は、京子の深い傷に更に深々と食い込んだ。自らの過去の行動にどのような過ちがあったというのか。京子にはその真鍋の真意が理解できなかった。

「まあ、こんな深刻な話はやめましょう、奥さん。さあ、今夜は一緒に飲もうじゃないですか」
真鍋が少しずつ距離を詰めてくるのがわかる。それを拒絶するように、京子はひたすらに前方だけを見つめ、グラスを両手で握り締める。

「こんなにお綺麗な奥さんなのにねえ・・・・、あいつの気持ちが僕にはわからないですよ」
至近距離から、真鍋は京子の横顔をじっと見つめる。息がかかるほどに接近し、そして京子の髪に遠慮なく触れる。

「真鍋さん、おやめになって・・・・・・・・」
「嘘でしょう、奥さん・・・・・・・・」

「・・・・・・・・」
「ここで待ち合わせしてるなんて、嘘なんでしょう・・・・・・・・」

「そ、それは・・・・・・・・」
「こんなにおしゃれな格好をして夜1人で外出するなんて、何をお望みなんですか、奥さん・・・・・」

「・・・・・・・・」
「たまには全て忘れて遊びたいんじゃないでしょうか、奥さん・・・・・・・」

あの日刻み込まれたこの男の卑猥な手の感触が、再び京子のヒップを襲う。



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