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終着駅(12)

2012 02 21
カウンター前の席に並んで座る男女に、来店した真哉はしばらくの間、気づくことはなかった。この店に彼は、他の客を観察に来るわけではないのだ。

ささやかな酒と極上の音楽。それに浸りながら、日常の緊張から解き放たれようとしているとき、それを邪魔するかのように真哉の耳に届いた男の声。

2人の男女の存在を彼に気づかせたのは、その嫌な声だった。

「・・・・・・・が喧嘩していると思われるだけですよ、奥さん・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・早く来るといいですなあ・・・・・・・・・・」

はっきりとは聞こえないが、男の言葉の一端を真哉は捉えた。それを素直に信じるならば、男の左側、つまりカウンターの一番奥に座る女性は人妻のようだった。

女性がこの店に来ることは、特別珍しいことではない。しかし、圧倒的に男性客が多いのも事実だった。現に今、20人近く客がいるこの店に、彼女以外に女性はいない。

薄いベージュ色のワンピースの裾から、女の細い脚が伸びているのがわかる。大胆にも、その女性の脚の隙間に、男の手が侵入しようとしていることに真哉は気づいた。

2人はいったいどんな関係なんだろうか。真哉は思いを巡らせた。会社の上司、部下の関係か、或いは古い知り合いか。夫婦ではなさそうだ。

その関係が何であれ、女性が男性に対して好意的な感情を持っていないことは確かだった。馴れ馴れしく手を伸ばし、その肉体をまざぐろうとする男に対し、既婚者らしいその女性は頑なに抵抗を示している。

はっきりとその男の行為を拒絶するかのように、彼女は一度叫び声をあげた。周囲の客に助けを請う叫びだったが、しかし、彼女に手を差し伸べるような男性客はいない。

その男と女は、仮にもこんな店に一緒に来ているのだ。元々何らかの関係があり、些細な喧嘩をしているだけなんだろう。そこに割り込む必要があるほどに、状況は切迫していない。

無関心を装う大半の客は、そんな観測を自らの態度の言い訳にしているようだった。真哉はしかし、彼らを非難することはできなかった。

過去の人生の中で、彼は何度もそんな態度で逃げてきた。厄介なことに自分から首を突っ込むようなタイプではなかった。真哉にはどこか消極的で、事なかれ主義な面があった。

そんな自分を意識する度に、真哉は自己嫌悪に陥っていた。だが、元来の性格なのだ。40になろうとしている今、それを変えることなど不可能なのだと、真哉は割り切ってもいた。

「キスぐらいさせろよ、奥さん・・・・・・・・・」
男の行為はエスカレートしていく。強引に人妻の唇を奪い、貪るようにそれを吸い始めている。周囲の視線など、まるで気にしていない。

舌を絡めとるような口づけとともに、男はその手を人妻の大切な箇所に大胆に伸ばしていく。カウンターの下で、男の指先が何を求めているのか、真哉は想像する。

決して派手な雰囲気ではなかったが、その女性にはどこか真哉を捉える要素があった。30代半ばだろうか。男に唇を吸われる女の横顔は、罪のないと形容できそうな美貌を備えていた。

依然として他の客に動く気配はない。それどころか、カウンターの男女はもはや仲直りをしたんだろうとでもいうように、完全にそこから意識を動かしてしまっている。

俺だけが彼女のことを見ている。俺だけが知っているのだ。その人妻が本当は男の行為に激しく抵抗し、誰かの助けを懸命に求めていることを・・・・・。

事なかれ主義という単語が、何度も真哉の脳裏に浮かぶ。明日は仕事だ。新車を何台も売りさばく、忙しい週末が再びやってくるのだ。

座ったまま、女性が激しく上半身を動かして、男から逃げようとしている。しかし、それは無駄な行為だった。彼女の細い肢体を拘束し、男は更に濃厚なキスを要求していく。

「いやっ・・・・・・・・・・・」
女の両手が男の肉体を押し返そうとする。構うことなく、男は人妻を強く抱き寄せ、女の抵抗を観念させるように舌を吸い、カウンター下に伸ばした片手をあやしく動かし続ける。

「久しぶりなんだろう、奥さん・・・・・・・・・・・・」
「ううんっ・・・・・・・・・・・・、ああっ、やめてくださいっ・・・・・・・・・・・・・・」

「たまには遊びたいからこんなところに自分から来たんだろう、ええっ?・・・・・・・・」
「違うっ・・・・・・・・・・・、ううんっ、そこはいやっ・・・・・・・・・・・・・・・」

女の濃厚な声が真哉の耳に届く。早くこの店から出るんだ。こんな男女に構うことなんかない。家に帰って、明日の仕事に備えろ。

何度も、そんな声が真哉の心に響く。それに従うように、真哉は椅子から遂に立ち上がり、鞄を持った。店員が伝票を持って近づいてくる。真哉は手にした鞄を再び置き、店員を軽く制す。

かつて感じたことのないような昂ぶりを、真哉は感じていた。それが果たして何故なのか理解できないまま、真哉は足早にカウンターに近づいた。

「おい、あんた・・・・・・・」
高価そうなスーツに身を包んだ男性に手を伸ばし、真哉は強く突いた。驚いたように、その男性が立ち上がる。どういうわけか、真哉は激しい怒りを感じた。

まるで背後にいる人妻の全ての混乱を引き受けるように・・・・・・。

その瞬間、真哉の右こぶしが男の頬を捉えた。床に崩れ落ちた男に対し、そこにいた誰もが同じ感情を抱いた。当然の報いが与えられただけなんだろう、と。

「き、きさま、何なんだ・・・・・・・・・・・」
「みっともないでしょう、あんた・・・・・・・・・」

「な、何だと?・・・・・・・・・・・」
「会社でどれだけ偉いんだか知らんけどね、この店じゃ単なる猥褻犯罪者だぜ・・・・・・・」

犯罪者という単語が、男の何かを刺激した。この店での出来事が会社で露見してしまうことに、怯えただけなのかもしれない。

よろよろと立ち上がった中年男は、自分を殴った男、そして椅子に座ったまま肢体をこわばらせている人妻の姿を恨めしそうに見つめ、逃げるようにその店を出て行った。

いったい自分が何を言い放ち、どんな行動をとったのか、真哉には理解できなかった。増して、そこから何が始まろうとしているのかなど、そのときの彼にわかるはずもなかった。


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