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終着駅(14)

2012 03 01
テーブルに置かれた自らの細い腕。それは、先刻まであの男に拘束されていた腕だ。強欲的な力から解放された今、そこにある腕時計に京子はさりげなく視線を投げる。

午後10時15分だった。

この店に来てからまだ1時間も経過していないことを知り、京子は驚きを感じる。目の前でビールを口にするこの男と過ごす時間は、それほどに濃密なものだった。

「もしよろしければ、なんですが・・・・・・・」
階段を駆け上がり、上質なジャズバーから地上へと誘導した人妻に対し、そう切り出したのは彼の方だった。

遠慮がちな口調は、そうした振る舞いに彼が不慣れなことを伝えるものだった。連れの男性に絡まれている見知らぬ女性を助けること、そして彼女を別の場所に誘うようなことに。

「あっ、いや、ご迷惑ならいいんです・・・・・・・・」
すぐに答えを示さなかった京子に対し、彼は少し慌てたようにそう言った。安堵感に包まれていた京子は、そんな彼の態度に、つい笑ってしまった。

「あ、あの、何かおかしいですか?」
「い、いえ、すいません、助けていただいたのにお礼も言えずに・・・・・・・」

「いや、いいんです、そんなことは・・・・・・・・」
「喜んで」

「は?」
「喜んでお付き合いします。別のお店で飲み直しませんか?」

夫への復讐を果たすかのように、私は今夜を特別な時間にしようとしたはずだ。それが夫の上司の登場により、ぶち壊されてしまったと言ってもよかった。

せめて、京子は残り少ない夜の時間を、この男に軌道修正してほしいと思った。彼の行動、そしてその態度。それを託すだけの信頼が、そこには存在していた。

すぐ近くにあった居酒屋に飛び込み、二人はビールで乾杯をした。互いの名前を紹介しあった後、話をリードしたのは彼、中倉真哉のほうだった。

彼が気を遣ってくれていることを、京子は感じた。真鍋との会話から、私が人妻であることを知っているはずだ。そんな私が金曜日の夜遅い時間に、一人なぜあんな店にいたのか。

真鍋との関係につき、真哉は最初の会話で質問を投げたが、話すのを避けたがっている京子の気持ちをすぐに感じ取ったようだった。

以降、彼は詳細を問いただそうとはしなかった。それを避けるかのように、彼は自らの仕事の話題を展開した。その気遣いが、京子には嬉しかった。

「それでそのお客さん、何を購入条件にしたと思います?」
「うーん、どうしたのかしら。何かお子様に?」

「プラモデルサイズのミニカーが店内に何台も飾ってあるんですよね。それを全部くれ、と」
「ええっ?」

自動車の販売員という真哉は、彼が過去に体験した様々な客のエピソード、そして何年も続く顧客との繋がりについて、面白おかしく話してくれた。

楽しかった。そんな風に誰かの話を聞いて笑ったことなんて、もう何年もなかった。夫との間に、そんな関係を期待できる気配など、もはや皆無だった。

会ってまだ1時間なのだ。にもかかわらず、京子は満たされた気分に浸り始めていた。真鍋の毒牙から私を救い出してくれたから、だけじゃない。

もっと決定的な何か・・・・。京子は感じていた。私はずっと昔から、この男性と知り合いだったのではないだろうか。気のおけない関係とも呼べる、親友として・・・・・。

少し飲み過ぎたのかしら・・・・・・・・

自分がかつてないような感情に支配されつつあることを感じ、京子はそう自戒した。夫がどれほどに酷い態度をとっているのであれ、私は人妻なのだ。別の男に親密さを抱くなんて。

だが、そうなることを目指して、私は今夜、娘を置いて一人、夜の街に出てきたのではなかったのか。葛藤を抱えながら、京子は目の前の中倉真哉を見つめる。

「あっ、退屈ですか、こんな話?」
「い、いえ・・・・・・・・、すごく面白いですわ・・・・・・・・・・」

本音をそう漏らしながら、京子は僅かに視線を落とす。何か自分も話すべきなのか。しかし、彼のように語るべき価値のある人生を、私は歩んで来てはいない。

過去に輝いているものは娘と出会えたことだけ、それ以外は、悲惨とも形容できる色彩を帯びた話ばかりだ。

しかし、と京子は思う。彼になら話してもいいんじゃないだろうか。どういうわけか、自らの過去のことを彼に伝えたい。そんな欲望を京子は抱き始めていた。

そして、京子は語り始めた。自分の年齢、結婚し娘がいること、更には夫との壊れた関係。全てをさらけ出すことで救いを求めるように、京子は赤裸々に告白した。

「それで今夜はあんな店にいらしたんですね?」
「え、ええ・・・・・・・・、たまには私も解放されたい、って思ったんです・・・・・・・・・・」

別の男との出会いを求め、更にそれを夫に見せつけてやる。さすがにそんな秘めた決意を明かすことはなかったが、京子はしかし、自らの行動の経緯を説明した。

無意識に「解放されたい」という表現を口にした自分に、京子は少し戸惑った。主婦として無責任とも思えるようなそんな発言に、悪印象を抱かれてしまうことを京子は恐れた。

しかし、それは杞憂だった。真哉は京子を優しく見つめ、そして疲れ果てた人妻を癒すように言葉を漏らした。

「大変だったんですね・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」

京子の重い話に圧倒されるように、二人の間から会話が途絶える。その沈黙は、しかし、気まずいものではなかった。京子はどこか、自分が本当に救われたような気がした。

彼はいったい今、何を考えているんだろう。自分から人妻だと改めて告白した目の前の女性に対し、一定の距離を保つことに努めているようにも見える。

「あ~、明日も仕事ですよ~」
その場の雰囲気を一変させるように、中倉真哉が明るいトーンでつぶやいた。

その言葉が意味することを考え、京子は僅かな寂しさを感じてしまう。


(↑次回更新5日月曜日です。クリック、凄く嬉しいです)
Comment
No title
いつもとは違った雰囲気ですね。

この先は、夢のようなストーリーか、はたまた

思いもよらない淫猥な嵐が待ち受けているのか、

やっぱり後者を期待してしまいますけど。
目の前に光景が浮かびます
臨場感のある文章。
引き込まれます。

この後は一体どうなるのか…
No title
今回は、
身近な現実に遭遇する内容で・・・より・緊張感に包まれます。

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