FC2ブログ

終着駅(28)

2012 07 02
「奥さん、ですね・・・・・・・・・・・」
どこかであの若い女の声を予想していた京子にとって、耳に届くその低音の声色はまるで背後から不意に襲い掛かってくるような気配を漂わせたものだった。

だが、女の声とはっきりとした共通項がある。どうしようもない嫌悪感を京子に与えることだ。腐臭の漂う人間にしか発することのできない声。当の本人にその自覚などあるわけもない。

「もしもし、奥さんでしょう・・・・・、黙ってないで何かおっしゃったらどうですか・・・・・・」
男の挑発的なその声に、体奥に複雑な情念を抱えたままの人妻はつい反応してしまう。

「別に無視してるわけじゃありませんわ、真鍋さん・・・・・」
「ほう、これは感激ですな。声だけで私だとおわかりですか」
「当然です。部長の声を忘れるわけはないですわ、特にあんな風な別れ方をした後は・・・・・」

10日前の記憶が、京子の体奥に色濃く蘇る。中倉真哉との情熱的な抱擁を経験したにもかかわらず、その直前に体験した真鍋との苦いひと時のことを、京子が忘れるはずもない。

夫、繁樹と同じ会社に勤務していた京子。そのときには真鍋との接点は特になかった。この男と対面したのは、彼が繁樹の上司として家を訪問した、3年ほど前のとある週末だ。

その1日だけであるにもかかわらず、京子はこの男にいい印象は持たなかった。狡猾で好色そうな気配を、この男は隠すどころか、部下の妻である京子に堂々と見せつけてきたのだ。

そして10日前のあのジャズバーでの再会。一人カウンターで過ごしていた京子の隣に強引に座り、過去の欲情を思い出したかのように人妻の肉体を犯そうとした男。

店員、他の客の視線を気にすることもなく、男は人妻の熟れた肉体を愛撫し、ワンピースの裾から侵入させた手で大切な部分をいじめ、そしてたっぷりと舌を吸い上げた。

それを思い出すだけで、京子は嫌な汗を肌に覚えてしまう。携帯を握ったまま、あの男の息遣い、そして獣のような野卑な手つきが蘇ってくる。

それは京子に妙な昂ぶりをも与える記憶だった。真哉に激しく責められている自分を想いながら、自慰行為に耽っていた人妻の体奥が、汚らわしい男の記憶に、なぜか反応してしまう。

「いいかげんにしてください、真鍋さん、あの夜のこと、警察に訴えてもいいんですから・・・・・」
自らの心の乱れをごまかすように、京子は思わずそんなことを口走った。

「奥さん、相変わらず威勢がいいですなあ・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」

「警察でも会社でもどこへでも訴えてみてください。あれは奥さんと合意の上での行為だったってことが証明されるだけですけどな」

その言葉に、この男の本性が滲み出ていた。どこまでも女性を愚弄した言葉を吐くこの男が、一流企業の部長として堂々と生きていける、今は時代なのだ。

「真鍋さん、あなたって人は・・・・・・・・・・」
行き場のない怒りを感じながらも、京子は改めて自分が回答を得ていないことに気付く。いったいこの男は、なぜ私の携帯番号を知り、直接電話をしてきたというのか。

「奥さん、まあ何とでも思ってください。そうやって怒るほどに、あなたの魅力が増しますからな」
「・・・・・・・・・」

電話の向こう側から見つめれているような気がする。いったいこの男はどこにいるのか。いつしかこのマンションの近くにまで来ているのかもしれない・・・・・。

「真鍋さん、あの・・・・・・、用がないなら切らせて」
「随分楽しんだようですな、奥さん」

京子の声を遮るように、真鍋が鋭い口調でそう言った。一気に流れが変わってしまったような気がする。男の言葉が何を意味しているのか、京子に分からぬはずもなかった。

この男は知っているのか、あの夜、私がとった行動のことを・・・・・・・・・

それは、しかし不思議なことではなかった。真鍋はあの店で中倉真哉の右手で殴打され、手中に収めようとしていた人妻を奪い取られたのだ。

あの後、中倉真哉とその人妻がどこに行き、どんな風に過ごしたのか。それを想像することは決して困難なことではない。

それに、京子はそんなシナリオをどこかで描いてもいたのだ。自分が別の男に愛される光景を、夫、繁樹に見せつけてやることこそ、その夜の京子の目的でもあったのだから。

しかし、夫ではなく真鍋に把握されてしまう、というのはあまり気持ちがいいものでもなかった。この10日間、京子はその可能性を感じながらも、ずっと気づかぬふりをしてきた。

「何のことをおっしゃてるのか、よくわかりませんけど・・・・・・・」
「白々しいことを言っても駄目ですよ、奥さん。あなたがあの男とあの後どこに行き、何をしたのか。何をあの男に許したのか」

「・・・・・・・・・」
「ヒーローを装って私を殴り、強引にあなたを奪い去ったあの腐った男ですよ」

「真鍋さん・・・・・・・・」
「奥さん、何を言われたか知りませんが、あの男は単にあなたの体目当てだったんですよ」

「・・・・・・・・・・・・」
「安っぽいラブホテルであいつに何をされたんですか、奥さん。夫がいるっていうのに、まさか全部許したわけじゃないでしょうなあ」

真鍋のセリフに圧倒されるかのように、京子は言葉を失ってしまう。真哉のことを徹底的に侮辱され、京子は強烈な怒りを覚えていた。にもかかわらず、抵抗の言葉が出ない。

夫、繁樹がいかに理不尽な行動に出ていようと、私は別の男と一夜を共にしたのだ。その決定的な事実が、常識を忘れ去ることのできない人妻に、今更重くのしかかってくる。

「奥さん、どうですか。朝まで楽しんだんでしょう、あの男と」
「・・・・・・・・・」

「抱かれたんですか、奥さん、あの男に」
「・・・・・・・・・」

「すっかり久丘君ともご無沙汰だったはずですから、随分乱れたんでしょうなあ、奥さん」
「いい加減に・・・・・・、いい加減にしてください!・・・・・・・」

叫んだところで自分のペースになるはずもないことに、人妻は気づいている。しかし、そこまで侮辱されたような言葉を浴びせられてしまえば、他にできることもない。

「どうやらお認めのようですな、奥さん、浮気をされたっていう事実を」
「浮気・・・・・・・・・」
「既婚者である人妻が別の男に体を許す。これが浮気じゃなくて何だというんですか、奥さん・・・・」

真鍋の言葉にすきはなかった。事実を確実に並べながら、少しずつ追い込んでくる。逃げ場が失われつつあることを感じながら、京子は男の言葉を待つことしかできない。

「まあ、奥さんにも同情するところはあります。久丘君のことは、上司である私がよく知っている」
「・・・・・・・・・・・・」

巧みにその口調を変えながら、男は人妻にじわじわと接近していく。やがて彼は、自らの電話の目的を隠すことなく人妻に伝え始める。

「奥さん、今日電話したのはですな、ほかでもないその久丘君からの依頼なんですよ」
「主人の・・・・・依頼・・・・・・・・」

中倉真哉との再会を信じ、自らの決断を誓った京子。いま、その目前にけわしい障壁がたちはだかろうとしていることを、京子は感じる。


(↑クリック、凄く嬉しいです。次回更新7月4日です)
Comment

管理者のみに表示