FC2ブログ

終着駅(31)

2012 07 16
タクシーの後部座席に座った人妻に、窓の外を流れる景色を眺める余裕はなかった。

残暑が幾分和らいできた季節。金曜日夕刻の混雑した交通量の中、タクシーは巧みに車線を変更しつつ、目指すべき場所へと向かっている。

その車がどこに向かっているのか、久丘京子はまだ知らされてはいない。

「あの・・・・・・・、どの辺りに向かっているんでしょうか・・・・・・・・・・・」
京子は再び、運転手にそう訊いた。乗車直後、同じ質問を口にしたときには満足できる回答を得ることができなかった。

初老の運転手は、経験を感じさせる確かな視線を前方に向けたまま、今回もまた、その人妻に答えを与えることはなかった。

「それはご依頼の方から伏せておくようにと言われてるんですよ」
「でも・・・・・・・・」
「別に辺鄙な場所にお連れするわけではありませんからご安心ください。都心の一角ですよ」

夕方6時過ぎ、このタクシーは京子の自宅マンションの下に到着した。それに乗るように、京子は既にあの男から指示を受けている。

新しい世界に旅立つ切符を得るためには、あの男の要請を受け入れるしかない。いくらそれが不本意なものであっても、これ以外にもう道はないのだ。

「真鍋さんの指示に従うんだな」
数日前の深夜、帰宅した夫、繁樹に言われた言葉を京子は先ほどから何度も脳裏で反復している。

夫は彼の上司に全てを託している。そこにどんな交換条件が存在しているのか、京子に関心はなかった。彼女の要求が本当に叶うのか、38歳の人妻にとってはただそれだけが懸念だった。

「お前が何を要求しているのか、それに気づかない俺じゃない」
「・・・・・・・・・・・・・」

「それを実現させたいんなら、真鍋さんに従うだけだ。お前も無条件で自分の望みがかなえられるほど、きれいな体じゃないんだろう、ええ?」

夫は全て知っているのだ。私があの夜、誰と一緒で、そして何をしたのか・・・・・・・。

タクシーは新宿方面に向かっている。遠い彼方の故郷とは全く別世界といえる街の風景にもすっかり慣れ親しむほどに、京子はこの大都会に住んできたはずだった。

しかし、今日だけは外の景色が自分に馴染むことはなかった。そこにいる誰もが自分に対して、無言のプレッシャーを与えてくるような気分だった。

無意識のうちに、京子は財布を強く握りしめる。その中には折りたたんだ用紙、そしてある男の名刺が存在しているはずだった。

それを確認するため、京子は財布を開け、その中に視線を投げる。直後、確かな衝撃が京子を襲う。そこにあるのは折りたたまれた白い用紙だけで、名刺はなかった。

そんな・・・・・・・・・・

鼓動を早くしながら、京子は何度もそこを確認した。だが、結果が変わることはなかった。確かにそこに入れたはずの中倉真哉の名刺が、いつしか消え去っているのだ。

唇をかすかに噛みながら、京子は自分の行動を懸命に思い出した。この財布に誰か、例えば夫が手を伸ばす可能性はまずなかった。京子はそれを、常に自分の周辺に保持していた。

今日を迎えるまで、京子は何度も真哉の書置きを読み返し、そして名刺を見つめ続けた。恐らく、その過程のどこかで、不注意にも財布に戻すことを失念したのだろう・・・・・。

リビングテーブルの上。或いは寝室の鏡台。家の中のどこかに無造作に置かれた1枚の名刺の様子を、京子は想像する。

懸命に冷静さを取り戻し、京子は何度も自らに言い聞かせる。たとえあの名刺が夫の視線に触れようとも、大した問題にはならないだろう。それがあの夜の“彼”であると、断言することなどできないのだから。

それに、夫は既に知っているのだ。妻の秘められた行為のことを。自動車営業マンの名刺を1枚見たからと言って、そこから何かを詮索しようとはしないに違いない。

萌菜・・・・・・・・。京子の脳裏に娘のことが不意によぎる。今日もまた、一人自宅に残してきた娘が、何かの拍子でその名刺を見つけるかもしれない。

それならそれでいい。いつかはあの子にも説明するときが来るのだから。今夜与えられた役割を果たすことができれば、必ず近い将来・・・・・・・・。

「お客さん、そろそろ到着しますよ」
「えっ?」

驚いたような声をあげる人妻の様子を、運転手はさして気にもしていない様子だった。車はいつしか飯田橋を通過し、そこから何度かの交差点を経て細い路地に侵入していた。

腕時計を見つめる。午後7時前だ。周囲は既に暗闇が支配しようとしている。一方通行の細い路地を、タクシーは慎重に進んでいく。

坂道が多い。この界隈に、京子は過去に来たことがなかった。大通りの喧騒から完全に無縁で、静寂が漂っている。都心にこんな空間が存在することを、京子はかつて知ることはなかった。

「ここのようですね。お支払いはいいですから」
運転手に促され、京子はそこに静かに降り立った。和風の趣が濃い、上品な門の前だった。

個人の自宅ではない。その証拠に、そこにはぼんやりとともされた小さな灯りが存在し、店の名前らしきものを周辺に示している。

「いらっしゃいませ。久丘様ですね」
高級感漂う着物に身を包んだ中年の女性が、丁寧な物腰で京子を迎えた。

「え、ええ・・・・・・・・・」
「お連れ様、既に中でお待ちです。さあ、どうぞ」

案内されるまま、京子はその家の中に足を踏み入れる。どうやらそこは料亭の類に属するような店のようだった。

決して大きな店ではない。黒塗りの車が近くに並んでいることもなければ、他の訪問客が大勢いるような雰囲気は全くなかった。

だが小さいながらも、何本かの植木が整えられ、池がある庭があることを京子は確認した。靴を脱ぎ、板の間にあがった京子は想像していたより長く続く細い廊下を歩いていく。

お連れ様、などではない・・・・・・・。この店のどこかで既に待っているであろうその男のことを想像しながら、京子はしかし緊張を高めずにはいられなかった。

廊下の片側には固く閉ざされた襖がいくつか続いている。それぞれの部屋に客がいるのかどうか、京子に確認することはできなかった。

この静けさから想像すれば、恐らくは誰もいないのかもしれない。それは、鼓動を速める人妻にとってあまり歓迎すべき状況ではなかった。

多くの客で賑わっているような店に来ることを、京子は想像していた。あの男と自分だけの空間が完全に外界から隔離されてしまうことを、京子はどこかで恐れていた。

「さあ、どうぞ」
最奥部の襖を、女中がゆっくりと開く。廊下に立ったまま、京子は室内に視線を投げる。あの男の後ろ姿がそこにある。

その視線が素早く人妻の服装をチェックしたことを、京子は確かに感じる。

真鍋の表情に笑みが浮かぶ。そこには上位に立つ者だけが漂わせることができる、確かな満足感が存在している。男は、支配者としてこの場を動かそうとしているのだ。


(↑次回更新、19日木曜日です。クリック、凄く嬉しいです)
Comment

管理者のみに表示