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終着駅(32)

2012 07 19
「奥さん、お待ちしてましたよ。さあどうぞ、こちらへ」
意図的とも思えるような明るい口調で、真鍋は京子に奥の席に座るよう指示を出す。沈黙を貫いたまま、京子はゆっくりと歩を進め、そして男の正面の位置に腰を下ろした。

掘り炬燵となっている大きなテーブルだった。バッグを脇に置き、京子は依然として黙ったまま、目の前の男を刺すように見つめ続ける。

ワイシャツを着た真鍋の姿が、京子の脳裏にあのジャズバーでの記憶を鮮明に蘇らせる。カウンター席で私の肉体に手を伸ばし、犯そうとした男の太い手がすぐそこにある。

「奥さん、まあそんな恐い顔しないでください」
「・・・・・・・・・・・・」
「あの夜は大人げないことをしてしまって。いや、申し訳なかったですな」

男の白々しい台詞が、人妻の彼に対する嫌悪感を高める。テーブルの上に手を置き、京子は男への憎しみを隠そうともせず、口を開く。

「そんな殊勝なお言葉を聞けるなんて想像していませんでしたわ」
「これは奥さん、相変わらず手厳しいですな」

「今夜、こんな場をセッティングされる方のお言葉とはとても思えませんが」
「奥さん、私だって何も身勝手にこんなことをしてるわけじゃない」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「すべてはあなた自身がまいた種ですよ。違いますか?」

「そ、それは・・・・・・・・・・・・」
「あなたの要求を叶えてあげようと私はこれでも尽力したつもりですがね、奥さん」

真鍋の一転した厳しい口調に、京子は反論することができない。今夜の二人の置かれた立場を最初に確認するような男のその言葉を、受け入れる以外にないことを人妻は自覚している。

「真鍋さん、改めてお聞きしますが・・・・・・・・・」
「何でしょうか」

「あなたを信じていいんですね。つまり、この店を私が去る時には、私の要求も確かに叶えられる・・・・・・」
「それは保証しますよ、奥さん。ただ・・・・・・・」

「ただ?・・・・・・・・・・」
「当然それなりのお覚悟をしてこちらにいらっしゃったんでしょうなあ、奥さん」

「・・・・・・・・・・・・・」
「まさか私と食事をするためだけにここにいらしたわけじゃないでしょう。自分がここに何をしに来たのか、それがわからないような方だとは考えてませんよ、奥さん」

男の視線が急に何かを求めるような色を帯びてくる。天敵に睨みつけられた小動物のように、京子はただ身を硬くさせ、言葉を発することができない。

勿論、それは覚悟してきたつもりだ。しかし・・・・・・。真鍋の姿をこうして目の前にし、完全に周囲から隔離されたこの和室に身を置くと、その決意をすぐに告白することが難しい。

「どうなんですか、奥さん」
「・・・・・・・・・・・」

「まあ、奥さん。今夜はリラックスして楽しく過ごしましょうや」
「えっ・・・・・・・・・・・・・・」

再び、豹変したかのように真鍋の口調が穏やかなものになる。タイミングを同じくして廊下につながる襖が開き、若い女中が二人、食事を室内に運び入れ始める。

「お互い険悪なムードでいてもせっかくの食事がまずくなるだけですからな。なあ、そうだろ?」
女中たちにそう声をかける真鍋は、どうやらこの店の常客のようだった。男の言葉におかしそうにくすくすと笑いながら、女中たちは広々としたテーブルに次々に食事を並べていく。

「今夜は一つ、仲直りの席ということにしましょう、奥さん」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「だからこそ、それを着てらしたんでしょう、奥さん」

満面に笑みを浮かべた男の視線が、人妻の全身に注がれる。確かな屈辱感に包まれながら、京子はしかし、反撃の言葉を返すことができない。

純白のシャツ、そして黒色のタイトスカート。人妻の熟れた肢体を包むその衣服は、イタリア発の人気ブランドのものだ。だがそれは彼女自身の持ち物ではない。

この日の数日前、京子は自宅に送られてきた小包を受け取っていた。箱の中には商品とともに、送り主からの手紙が添えられていた。

「金曜日にはこちらの服を身に着けてくるように」

その指示が何を意味するのか、人妻にはおぼろげながら理解できる気がした。50代の汚れた男が持つ、歪んだ嗜好がそこに見え隠れするようだった。

自宅でそれを身に着け、鏡に全身を映し出したとき、京子はそれを確信するに至った。それはまさにあの日と同じような服装だった。

3年ほど前、初めてこの男が自宅にやってきた、あの夜だ。あの日、徹底的にクールに振る舞った人妻を、あの日と同じ人妻を、この男は汚してやりたいと願っているのだ・・・・・。

「別に、真鍋さんと仲直りをするために要求通りこの服を着てきたわけじゃありませんわ」
「ほう・・・・・・・・・」
「私は今夜、ただ自分の望みを叶えたいがために、あなたの指示に従ったまでですから」

すっかりテーブルに並べられた膳が、その夜のイベントを早く始めることを催促するかのように、京子の前にある。既に二人の女中は室内にはいない。

「それはご安心ください、奥さん。ちゃんと保証しますからな」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「すっかり準備もできたようですな。食事を始めようじゃないですか」

真鍋はガラス製の大型の徳利を手にしながら、そう笑みを浮かべた。その徳利と揃いのガラス製の洒落たお猪口が二人の前にある。

「私、今夜はお酒は結構ですから・・・・・・・・・」
「何をおっしゃいますか、奥さん。この店の酒は山形のいい銘柄のを使ってます。乾杯くらいいいでしょう」

「でも・・・・・・・、困ります・・・・・・・・」
「浮気相手とはお酒をあれほど飲み交わすくせに、今夜は駄目だとおっしゃるんですかね」

とげのある真鍋の言葉に、京子は確かな困惑を覚える。あのジャズバーを脱出した後、ホテルに向かう前に中倉真哉と過ごした居酒屋でのひととき。

真鍋はそんなことまで知っているというのか・・・・・・・・・。

「奥さん、どうなんですか」
「わかりました。では、いただきます・・・・・・・・・・」

男に全てを委ねることに合意したかのように、人妻が緊張した様子でグラスを手にする。真鍋が意味深な笑みを浮かべながら冷酒を注ぎ込む。

しっかりと冷やされた液体の感触が、京子の手に伝わる。人妻は意図的にそのままの姿勢を維持する。特に不満を表すこともなく、真鍋は己のグラスに自分自身で冷酒を注ぐ。

「では乾杯といきましょうか。奥様の新しい人生を祈念して」
男のその台詞に確かな怒りを覚えながらも、京子はどこかでそれに同意しないわけにはいかなかった。無言のまま男を見つめ、そこにある液体を少しばかり喉に流し込む。

京子は決して酒が飲めないタイプではなかった。むしろ酒に強いほうに属するが、自分から進んでアルコールを口にするようなことはなかった。

そんな京子にもその辛口の冷酒がレベルの高いものであることは理解できた。数滴の液体が、心地よい酔いの気配を人妻の肢体にゆっくりと拡散させていく。

「酒だけじゃない。食事もなかなかのものですよ、ここは」
並べられた懐石料理もやはり、相当に高価なものでありそうだった。男との会話を避けようとするかのように、人妻は静かに食事を始める。

真鍋の視線が自分のどこに向けられているのか、京子は心を過剰に揺らす。目の前の男に遂に組み伏せられた自分自身の姿を、人妻は密かに想像してしまう。

シャツの下の肌に、嫌な汗が浮かび始めていることを京子は感じる。


(↑次回更新、23日月曜となります。クリック、凄く嬉しいです)
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