闇の奥からの誘惑(3)
2013 08 19
「よし、翔太、できたぞ!」
初めてのテント設営は、想像以上に簡単なものだった。妻と協力して20分程度時間をかければ、それはあっさりと完成した。
初めて訪れたキャンプ場はかなり広大なエリアを有していた。細かく区画が分かれ、どのサイトにも車でダイレクトにアプローチができる。
必要であれば、管理棟で炭や調理器具、毛布がレンタルできる。数か所に水洗トイレそして炊事場が点在し、数は少ないが温水シャワー設備まで設置されている。
テントサイトにはAC電源も備わり、私の当初の想像とはかなりかけ離れた場所であった。この広大な敷地を大きく迂回するように一筋の碧い川が流れている。
「わあ、ここで寝るんだ、今日は!」
組み立てたばかりのテントの中に飛び込み、翔太が寝袋に潜り込む。そんな息子の様子をくすくすと笑いながら、妻が見つめている。
「あらあら翔太、もう寝ちゃうのかしら?」
「だって疲れたよお」
「いいの、川で遊ばなくても?」
「そうだ、川だ! ねえ、早く川に行こうよ!」
午後2時になろうとする頃だった。上空には相変わらず強烈な太陽が存在し、夏の暑さを頂点にまで導こうとしている。夏休みのキャンプ場として、それは申し分ない環境だった。
周囲の区画にも少しずつ車が停まり、それぞれの準備を始めている。中には既に火を起こし、BBQを始めている家族もいるようだ。
川の方向から歓声がかすかに聞こえてくる。それに刺激される息子は、もはやここに留まることができないようだ。妻に促され、急いでテントの中で水着に着替える。
私もまた、Tシャツに水着という姿に着替えた。出発前、息子にさんざん誘われた妻だったが、結局今回の旅行に水着を持参することはなかった。
「さあ、いこうよ!」
巨大な浮き輪を持って駆けていく息子を、私と妻が笑みをかわしながら追いかけていく。周囲の林からこれでもかというようにセミの声が響いてくる。
いくつかのテントサイトを縫って歩くようにしばらく進むと、突然視界が広がり、ごつごつとした岩場が姿を現した。そのすぐ向こうに、穏やかに流れる川がある。
慌てる翔太を抑えながら、私はゆっくりと川に近づいた。場所によっては十分な深みがある。既に多くの先客がいて、川に入ったり、川辺の石を積み上げたり思い思いに楽しんでいる。
「よし、翔太、行くぞ!」
「うん!」
簡単な準備体操を済ませ、私は息子の手を繋ぎ、そっと足を水の中に進めた。ビデオカメラを持った妻が、私たちのそんな姿を楽しげに撮影している。
足先が水に触れた瞬間、私は初めて経験する川の強烈な歓迎を受けた。その水が、私の予想を遥かに凌駕するほどに冷たかったのだ。それは、息子にも同じようだった。
「わあ、冷たい!」
よく観察してみると、川に入っている周囲の客には、大人、子供を問わずウェットスーツを着ている連中が多い。40度近い気温でさえも、この川の冷たさは少々厳しいものに思えた。
「大丈夫、あなた? 川の水は凄く冷たいでしょう?」
カメラのレンズを覗いたまま、妻が私を少しからかうように声をかけてくる。
「これはきついなあ。いったん中に入っちゃえば慣れちゃうのかもしれないけど」
「そうね、この暑さだからすぐに慣れるわよ。私も思いきって水着を持って来ればよかったな」
その言葉が妻の本音かどうかを考えながら、私はいったん川岸に戻り、思い切ってTシャツを脱いだ。そして再び足を進め、川の中にゆっくりと全身で入っていった。
水泳教室に通う翔太に、水を怖がる気配はまるでない。浮き輪につかまる息子をしっかりと支えながら、川の中央付近にまでゆっくり移動していく。
見かけ以上に水の流れは速かった。うっかり油断すると簡単に流されてしまうようにも思える。緊張感を保ちつつ、息子の浮き輪を上下左右に動かし、刺激を与えてやる。
「わあ、パパ、やめて、怖いよ!」
言葉とは裏腹に、息子はもっと続けるようにせがんでくる。少し距離が離れた川岸から、妻がカメラ撮影を続け、そして私たちに手を振ってくる。
都心のプールほどではないが、周囲は人で混雑している。反対側の川岸には巨大な岩がいくつか並び、その上から高校生と思える若者たちが歓声をあげて飛び込みを繰り返している。
川底の石が痛く、サンダルを脱ぐことができない。思うように動けないが、私は息子と一緒に初体験となる川での水遊びをたっぷりと楽しんだ。
「翔太、少し休憩だ。今度はママのそばで遊ぼうよ」
再びゆっくりとしたペースで移動し、私たちは川岸に戻る。デニムを膝下にまで折り曲げた妻が、水に浸かる寸前のエリアまで私たちを出迎えてくれる。
「ママ! ほら、冷たいよ!」
自分で立てる位置にまで来た翔太が、ふざけた様子で水を妻にかける。
「きゃあ、やめて!」
「ほら、冷たいでしょ!」
「こらっ、翔太ってば!」
手にしていたビデオカメラをかばうように背を向けた妻の全身に、息子が何度も水をかける。純白のTシャツが、僅かに素肌が透けて見えるほどに濡らされ、妙ななまめかしさがそこに浮かび上がる。
それでも妻は楽しげだった。こんな環境で休日を家族で味わうことなど、かつてなかったのかもしれない。濡れたTシャツを隠そうともせず、妻は幸せそうに笑い続ける。
私は自らの上半身をタオルで拭いながら、そんな妻を見つめる。周辺の多くの客は相変わらずそれぞれに歓声をあげて楽しんでいる。
そんな至福の状況の中、私はかすかな違和感を覚えている自分に気付いた。初めは何の確信もなかった。しかし、「何か」を私は確かに感じ始めていた。
誰だ・・・・・・・。
妙な感覚に包まれながら、私は神経を集中させた。できることは、しかし、限られている。ただ耳を澄まし、注意深く周囲に視線を配った。
それで十分だった。私は「何か」の存在にすぐに気付いた。管理棟であるログハウス風の建物が川岸から遠くに見える。そのはるか後方の延長線上、そこにそれはあった。
かなりの距離であるため、はっきりとはわからない。林がやがて森になろうとしている木々に囲まれた薄暗いエリアに、一人の男が立っているように見えた。
微動だにせず、彼は双眼鏡を構えていた。その標的は、勿論私の勘違いの可能性も大なのだが、まさに私たちのいる場所に向けられているような気がした。
妻が観察されているのだ・・・・。そう感じ取った私は、思わずその方向に走り出そうとした。その瞬間、その人影は素早く動き、後方の森奥へと姿を消した。
「あなた、どうしたの?」
「い、いや、何でもないさ・・・・・」
かすかな動揺を隠すことができない私を、妻もまたどこか不安げな表情で見つめ返す。
妻が水着に着替えることを想定し、その瞬間を狙っていたのだろうか。或いは・・・・・。ここで今夜1泊することを改めて思い出し、私は鼓動をわずかに高める。
考えすぎだろう・・・・。しかし、あの逃げるような動作は・・・・・・。
様々な思いを巡らせる私を追い込むように、強烈な太陽が上空から光を注ぎ続けている。
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初めてのテント設営は、想像以上に簡単なものだった。妻と協力して20分程度時間をかければ、それはあっさりと完成した。
初めて訪れたキャンプ場はかなり広大なエリアを有していた。細かく区画が分かれ、どのサイトにも車でダイレクトにアプローチができる。
必要であれば、管理棟で炭や調理器具、毛布がレンタルできる。数か所に水洗トイレそして炊事場が点在し、数は少ないが温水シャワー設備まで設置されている。
テントサイトにはAC電源も備わり、私の当初の想像とはかなりかけ離れた場所であった。この広大な敷地を大きく迂回するように一筋の碧い川が流れている。
「わあ、ここで寝るんだ、今日は!」
組み立てたばかりのテントの中に飛び込み、翔太が寝袋に潜り込む。そんな息子の様子をくすくすと笑いながら、妻が見つめている。
「あらあら翔太、もう寝ちゃうのかしら?」
「だって疲れたよお」
「いいの、川で遊ばなくても?」
「そうだ、川だ! ねえ、早く川に行こうよ!」
午後2時になろうとする頃だった。上空には相変わらず強烈な太陽が存在し、夏の暑さを頂点にまで導こうとしている。夏休みのキャンプ場として、それは申し分ない環境だった。
周囲の区画にも少しずつ車が停まり、それぞれの準備を始めている。中には既に火を起こし、BBQを始めている家族もいるようだ。
川の方向から歓声がかすかに聞こえてくる。それに刺激される息子は、もはやここに留まることができないようだ。妻に促され、急いでテントの中で水着に着替える。
私もまた、Tシャツに水着という姿に着替えた。出発前、息子にさんざん誘われた妻だったが、結局今回の旅行に水着を持参することはなかった。
「さあ、いこうよ!」
巨大な浮き輪を持って駆けていく息子を、私と妻が笑みをかわしながら追いかけていく。周囲の林からこれでもかというようにセミの声が響いてくる。
いくつかのテントサイトを縫って歩くようにしばらく進むと、突然視界が広がり、ごつごつとした岩場が姿を現した。そのすぐ向こうに、穏やかに流れる川がある。
慌てる翔太を抑えながら、私はゆっくりと川に近づいた。場所によっては十分な深みがある。既に多くの先客がいて、川に入ったり、川辺の石を積み上げたり思い思いに楽しんでいる。
「よし、翔太、行くぞ!」
「うん!」
簡単な準備体操を済ませ、私は息子の手を繋ぎ、そっと足を水の中に進めた。ビデオカメラを持った妻が、私たちのそんな姿を楽しげに撮影している。
足先が水に触れた瞬間、私は初めて経験する川の強烈な歓迎を受けた。その水が、私の予想を遥かに凌駕するほどに冷たかったのだ。それは、息子にも同じようだった。
「わあ、冷たい!」
よく観察してみると、川に入っている周囲の客には、大人、子供を問わずウェットスーツを着ている連中が多い。40度近い気温でさえも、この川の冷たさは少々厳しいものに思えた。
「大丈夫、あなた? 川の水は凄く冷たいでしょう?」
カメラのレンズを覗いたまま、妻が私を少しからかうように声をかけてくる。
「これはきついなあ。いったん中に入っちゃえば慣れちゃうのかもしれないけど」
「そうね、この暑さだからすぐに慣れるわよ。私も思いきって水着を持って来ればよかったな」
その言葉が妻の本音かどうかを考えながら、私はいったん川岸に戻り、思い切ってTシャツを脱いだ。そして再び足を進め、川の中にゆっくりと全身で入っていった。
水泳教室に通う翔太に、水を怖がる気配はまるでない。浮き輪につかまる息子をしっかりと支えながら、川の中央付近にまでゆっくり移動していく。
見かけ以上に水の流れは速かった。うっかり油断すると簡単に流されてしまうようにも思える。緊張感を保ちつつ、息子の浮き輪を上下左右に動かし、刺激を与えてやる。
「わあ、パパ、やめて、怖いよ!」
言葉とは裏腹に、息子はもっと続けるようにせがんでくる。少し距離が離れた川岸から、妻がカメラ撮影を続け、そして私たちに手を振ってくる。
都心のプールほどではないが、周囲は人で混雑している。反対側の川岸には巨大な岩がいくつか並び、その上から高校生と思える若者たちが歓声をあげて飛び込みを繰り返している。
川底の石が痛く、サンダルを脱ぐことができない。思うように動けないが、私は息子と一緒に初体験となる川での水遊びをたっぷりと楽しんだ。
「翔太、少し休憩だ。今度はママのそばで遊ぼうよ」
再びゆっくりとしたペースで移動し、私たちは川岸に戻る。デニムを膝下にまで折り曲げた妻が、水に浸かる寸前のエリアまで私たちを出迎えてくれる。
「ママ! ほら、冷たいよ!」
自分で立てる位置にまで来た翔太が、ふざけた様子で水を妻にかける。
「きゃあ、やめて!」
「ほら、冷たいでしょ!」
「こらっ、翔太ってば!」
手にしていたビデオカメラをかばうように背を向けた妻の全身に、息子が何度も水をかける。純白のTシャツが、僅かに素肌が透けて見えるほどに濡らされ、妙ななまめかしさがそこに浮かび上がる。
それでも妻は楽しげだった。こんな環境で休日を家族で味わうことなど、かつてなかったのかもしれない。濡れたTシャツを隠そうともせず、妻は幸せそうに笑い続ける。
私は自らの上半身をタオルで拭いながら、そんな妻を見つめる。周辺の多くの客は相変わらずそれぞれに歓声をあげて楽しんでいる。
そんな至福の状況の中、私はかすかな違和感を覚えている自分に気付いた。初めは何の確信もなかった。しかし、「何か」を私は確かに感じ始めていた。
誰だ・・・・・・・。
妙な感覚に包まれながら、私は神経を集中させた。できることは、しかし、限られている。ただ耳を澄まし、注意深く周囲に視線を配った。
それで十分だった。私は「何か」の存在にすぐに気付いた。管理棟であるログハウス風の建物が川岸から遠くに見える。そのはるか後方の延長線上、そこにそれはあった。
かなりの距離であるため、はっきりとはわからない。林がやがて森になろうとしている木々に囲まれた薄暗いエリアに、一人の男が立っているように見えた。
微動だにせず、彼は双眼鏡を構えていた。その標的は、勿論私の勘違いの可能性も大なのだが、まさに私たちのいる場所に向けられているような気がした。
妻が観察されているのだ・・・・。そう感じ取った私は、思わずその方向に走り出そうとした。その瞬間、その人影は素早く動き、後方の森奥へと姿を消した。
「あなた、どうしたの?」
「い、いや、何でもないさ・・・・・」
かすかな動揺を隠すことができない私を、妻もまたどこか不安げな表情で見つめ返す。
妻が水着に着替えることを想定し、その瞬間を狙っていたのだろうか。或いは・・・・・。ここで今夜1泊することを改めて思い出し、私は鼓動をわずかに高める。
考えすぎだろう・・・・。しかし、あの逃げるような動作は・・・・・・。
様々な思いを巡らせる私を追い込むように、強烈な太陽が上空から光を注ぎ続けている。
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Comment
キャンプ大好き
何時も家内と楽しませていただいています。アウトドア好きの夫婦です。今後の展開に期待しています。やはり夏物は興奮しますね。