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闇の奥からの誘惑(4)

2013 08 21
汗のにじんだ手首に視線を投げる。このキャンプのために購入した典型的なアウトドアスタイルの腕時計のデジタル表示は、午後4時半をまわったところを私に教えていた。

陽が沈む気配はまだない。確実に気温は下がりつつあるはずだが、それは今の私には無縁だった。既に30分近く、私は汗ばんで格闘しているのだ。

「ねえ、パパ、まだ?」
「まあ待てよ。まだまだ時間はあるさ、翔太」

「でもまわりはもうみんなお肉焼き始めてるよ」
「すぐに追いつくさ。ほら、その辺りをママと一緒に散歩してきなよ」

川遊びからテントに戻った私たちは、着替えを済ませると早々に食事の準備にとりかかることにした。この日のために購入したテーブルセットをタープの下に配置する。

炊事場に米を研ぎにいった妻と息子をよそに、私はバーベキューコンロを設置し、慎重に炭を並べた。そして丸めた新聞紙に火をつける。

勢いよく燃え始めた紙片を目にし、私は確かな安堵を得ていた。何せ経験のない私にとって、無事に火が起こせるのかどうか、それがキャンプでの最大の不安であったのだ。

だが、初心者を容易に歓迎するほど、現実は甘いものではなかった。瞬く間に火が消えた新聞紙がそこに灰となって残るだけで、並べた炭には何の変化も起きない。

焦りを感じつつ、私は何度も試みた。点火しては手にしたうちわで懸命に風を送る。しかしいずれも徒労に終わった。黒々とした灰がむなしく宙を舞うだけだ。

「あら、やっぱり火がつかないの?」
戻ってきた妻が、少し心配げな様子で私の背後から声をかけてくる。

「ああ。やっぱりそんなに簡単じゃないなあ」
「大丈夫よ。時間はたっぷりあるんだから」
「こんなことなら、簡単にできるって店で紹介された火おこし器を買ってくるんだったな」

キャンプ用品を揃えに出かけた買い物のときの決断を後悔したところで、もうどうにもならない。私は、ただ懸命に作業に集中しながらも、妻の視線を感じないわけにはいかなかった。

結婚前、頻繁にツーリングに出かけていたという妻。はっきりとは話そうとはしないが、キャンプの経験も数多くあるはずだ。このような夫の姿を見て、何を感じるのだろうか。

考え過ぎであることは承知していた。妻がこんなことを理由に夫を軽蔑するようなタイプの女性でないことも理解している。にもかかわらず、やはり焦燥感を感じないわけにはいかなかった。

苦手なアウトドアに挑戦することを決定したのは、過去の自分とは全く違う姿を妻に披露することが、一つの目的だった。

それこそが、数年間続いている二人の微妙な関係を違った方向に導くことができると感じたのだ・・・・。

「あなた、大丈夫よ、そんなに慌てないで。そうね、翔太と一緒に散歩でもしてくるから」
あくまでも優しさだけを感じさせるその妻の口調に、決して隠された思いはなかった。少々ふてくされたような息子を強引に連れて、妻は再び川の方向に歩き出す。

「参ったな・・・・・」
ため息をつきながら、私は改めて周囲を見回してみる。息子が指摘したように、どのテントでも既に火がおこされ、楽しげなバーベキューが開始されている。

やはり家族連れが多い。子供たちにとっては、高級リゾートホテルになど行くよりも、このようなキャンプ体験を家族でするほうが、よほど楽しいに違いないのだ。

子供のころから、しかし、私はそんな生活とは無縁だった。それは、確かな劣等感を私に与え続けてもいた。それを払拭させてこそ、妻との距離を初めて縮められるような気もする。

深呼吸をし、動揺を何とか抑えこむ。そして再び目の前のコンロと格闘する。だが結果は同じだった。周辺から流れてくる歓声そして肉の焼けるにおいが、私を更に戸惑わせる。

用意した新聞紙もそのうちすべて使い切った私には、周辺の林から木を拾ってくるか、あるいは管理棟にサポートを仰ぐしか、残された道はなさそうだった。

「だいぶご苦労されてますね?」
ふいに背後から聞こえてきた声に、私はすぐに反応することができなかった。

「えっ?」
「簡単そうでなかなか火を起こすのは難しいですからね」

Tシャツにデニムというラフな格好の一人の男性がそこにいた。よく日に焼けた顔つき、そして人が好さそうなその笑顔。人の顔を覚えるのが得意でない私だが、すぐに気付いた。

「あれ、さっき途中のスーパーで・・・・・・」
食材を購入したスーパーのレジに並んでいる際、すぐ後ろにいた男性のことを私は思い出した。

「そうですね。いや、偶然ですね、同じキャンプ場だったんですか」
「え、ええ。実は家族そろって初めてのキャンプでして・・・・」

「そういえば元気そうなお子さんがいらっしゃいましたね」
「私がなかなか火を起こせないもんだから、強引に妻と散歩に行かせました」

「ははは、そうですか。あの、もしよかったら、お手伝いしましょうか?」
「えっ、よろしいんですか?」

どのような助けにもすがりたいような心地だった私は、彼の言葉を素直に受け入れた。手にしていた袋をその場に置き、彼はテント周辺の木々の辺りで何本かの枝を素早く拾ってきた。

「これだけあればうまく火が起こせると思いますよ」
「それだけで、ですか・・・・・」

手際よくコンロの中の炭を動かし、その周囲で拾ってきた枝に火をつける。不思議なことに、一度生まれた炎はどういうわけか消えることなく、確実に成長していく。

枝にも細いものや太いもの、よく観察するとバラエティに富んだ種類が揃っていた。絶妙な順で火を広げていき、私とは少し異なるようなうちわの仰ぎ方で更に勢いを与えていく。

やがて、炭に火が移り、もはやそれは完全な熱を帯びた存在となった。僅かな時間で見事に火を起こしたその男性の姿を、私はただ驚きとともに見つめるだけであった。

「いや、お見事です。本当に助かりました」
「まあ何度もやってますから。誰だって最初は苦労しますからね、気になさることはないですよ」

「なんとお礼を言ったらいいか」
「キャンプ場ではみんな助け合いですから。全く問題ないです。じゃあ、私は自分のテントに戻りますね」

最後まで爽やかな笑顔を浮かべたまま、彼はそのまま立ち去ろうとしたが、何かを思い出したように、拾い上げたレジ袋を私に差し出した。

「実はこれをどなたかに差し上げようと思って、さっきから歩き回っていたんですよ」
「えっ?」

「昼間、スーパーで買いすぎましてね。もしよかったらどうぞ」
「いや、しかし・・・・・」

「どうせ余るだけですから。持って帰るのも大変ですし。さあ、どうぞ」
彼は半ば強引にその袋を私に手渡すと、少し照れたようにお辞儀をし、歩き去って行った。

「参ったなあ、助けてもらった上にこんなものをもらって・・・・・・」
袋の中を覗き込むと、そこには缶ビールが数本入っていた。これを唯一飲む可能性があるのは妻なのだが、昼間のスーパーでの会話から想像する限り、恐らくは今夜も飲まないはずだ。

「わあ、火がついてる! パパ、すごいね!」
翔太が叫びながら走り寄ってくる。後方からゆっくりと妻がこちらに向かって歩いてくる。少し驚いたような笑顔を浮かべているのがわかる。

「あなた、凄いじゃない、火がついたのね」
「いやあ、凄いだろう、と自慢したいんだけど、実は他のキャンパーの人にやってもらったんだよ」
「あら、そう。まあキャンプ場ではそんな風に助け合うのが普通だから。よかったんじゃない?」

先ほどの男性と同じような言葉を口にしながら、妻はテーブルの上の食材の準備を始めた。もらったビールのことを言いだすタイミングを逸したまま、私はすぐに目の前のコンロに向かった。

既に午後5時をまわっている。その時の私は、ただ穏やかな気分にだけ包まれていた。


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