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闇の奥からの誘惑(5)

2013 08 23
いったん火がついてしまえば、後は想像以上に順調に時が流れた。火種を安定させながら、コンロに炭を敷き詰めていき、しばらくの時間を経過させる。

その間に、用意した肉、野菜を素早く切り分け、皿に盛っていく。軍手をはめ、改めてうちわを握りしめ、コンロ前の椅子に座る。十分に網を熱した後、食材をゆっくりと置いていく。

普段は使わないアウトドア用の食器がテーブルに並べられるだけで、息子は目を輝かせている。持参してきた携帯ガスコンロを使い、妻がご飯を炊き始める。

「焦がさないようにしないとね」
「そうだな」
「そっちのお肉もそうだけど、このお鍋のご飯も気を付けないとすぐ焦げちゃうから」

久々のキャンプ体験がやはり刺激しているのか、妻はいつも以上に楽しげな雰囲気を漂わせている。こんなささやかな望みさえも、妻は密かに抑え込んできたのかもしれない。

炭火の勢いが一気に増していく。肉も野菜も次々に焼けてしまう。私は目の前の強い熱と格闘しながら、懸命にその作業に集中した。

今回準備した食事は結局バーベキューだけであった。カレーや汁物も考えたが、妻のアドバイスもあり、初心者の私の力量を踏まえ、まずは焼くだけで済む食事としたのだ。

ふと気づけば夕闇が私たちを包み込もうとしている。テーブルにランプを置き、燃えさかる火を見つめれば、黒々とした周囲との対照が一層鮮やかなものとなる。

「うわあ、すごいや」
次々にテーブルに置かれる肉にたっぷりたれをつけて、翔太がいかにもおいしそうに食事を始める。自分が初めて置かれた環境に、感嘆の声を漏らしながら。

初めてなのは私にも同じことだった。満足げな息子、そして妻の姿を見て、私は自分が当初ためらったキャンプに来ることを選んで本当によかったと、改めて痛感した。

「さあ、ご飯がそろそろ炊けたわよ」
妻が注意深く見守っていたおかげで、焦げることもなく無事にご飯の準備ができた。翔太はしかし、肉に集中して、妻が用意してくれたご飯には見向きもしない。

「翔太、ほら、駄目よ、お肉ばかりじゃ」
「だって、今日は特別だよ」

すっかり一人前の口をききながらも、肉を食べるのを止めようとしない息子に、私は思わず笑みを浮かべる。妻が差し出してくれたコーラで、私は遠慮なく喉を潤す。

全身が汗とすすで汚れている気がしたが、それは妙に心地いいものでもあった。自分がキャンプ生活にすっかり魅了され始めていることを感じながら、私は火の前での作業を続ける。

コーラを飲みながら、ふと先ほどの男性からもらったビールのことを思い出した。私はさりげないトーンで、妻に誘いをかけてみた。

「そういえば、さっきの人からビールをもらったんだよ」
「えっ、さっきの人って?」

「ほら、この火を起こしてくれた人さ」
「あら、そうなの?」

「昼間にスーパーで翔太に声かけてきた人がいただろう。あの人でさ」
「そういえば、あの方、いかにもキャンプ行ってますって人だったわね」

「ビールを買いすぎたとか言ってさ、それで半ば強引にもらっちゃって」
「助けてもらった上にそれじゃあ、悪いことしたわねえ。飲むような人は一緒じゃないのかしら」

「さあね、特に何も聞かなかったけど」
私はそう言いながら、もらったレジ袋が置いてあるテント脇の一角に視線を投げた。妻がそこを覗き込み、中身を確認する。

「あらやだ、4本もあるわよ」
「どうだ、麻由美、せっかくだから飲めば?」

「えっ、そうねえ・・・・・・」
妻は少し迷うように言葉を詰まらせる。次第にその濃さを増していく闇に包まれた周辺では、何組ものキャンパーたちが火を囲み、その多くが実においしそうに缶ビールを手にしている。

こんな環境で飲むアルコールはきっと格別な味なのだろう。ビールとは縁がない私にも、その感覚は容易に想像できるような気がした。だが、妻の決意はやはり変わらなかった。

「いいわ、やっぱり、私、あなたと同じコーラでいいから」
「そうか・・・・・・」

特に無理強いすることもなく、私はあっさりと会話を終わらせた。残り少なくなった食材を焼きながら、私はどこか満足できない自分自身を見過ごすわけにはいかなかった。

これまで抑圧してきた望みを、まだ妻は全て解放しようとはしていないのだ。私にありのままの姿を曝け出そうとはしないのは、あの夜、私が犯した過ちが原因なのだろうか・・・・。

「あなた、もう全部焼けそうね」
妻のそんな言葉に、私は自らの思考を捨て去り、平静を取り戻す。

「そうだな。あんなに苦労して火を起こしたのに、あっという間だったなあ」
テーブルの皿の上には、焼き上げた肉や野菜がまだ十分に残っている。余裕ができた私は、そちらに箸をのばし、改めて食事を楽しむことにした。

冷めてしまった具も多いが、その味は格別だった。妻もまた満足そうに食事を進めている。先に食べ終わった息子は、スーパーで購入したぶどうをうまそうに頬張っている。

「もう食べたのか、翔太」
「ちょっと休憩させてよ。こんなに食べたの、初めてだよ」

時計を見ると、まだ午後7時半を過ぎたところだった。陽は完全に沈んだのだろう。闇が支配しようとしている周囲からは夏の虫たちの歌声が聞こえ始めている。

上空を見上げれば、木々の隙間から、都心では決して観られない星空が確認できた。心配された雷雨の心配もこの分ではなさそうだ。

「ちょっと手が汚れたから洗ってくるよ」
「ええ。炊事場までももう道が暗いわねえ」

私は、しかし、懐中電灯を持つこともなく、100メートルほど先の炊事場へと向かい始めた。一仕事終えた安堵を感じながら、首にまいたタオルで汗を拭う。

多くの家族やグループ客が、周囲の区画でそれぞれの時間を楽しんでいる。そんな姿を見つめながら、私は炊事場へと向かった。

そこは、こうこうと照らされた灯りに包まれていた。既に食事を終えたと思われる客たちが、皿を洗ったり、或いは歯を磨いている幼い子供たちがいる。

せっけんで手を入念に洗い、私はその場を立ち去ろうとする。そのとき、ふと横に立つ彼の姿に気付いた。今夜の恩人である彼は、一人、水道水で顔を洗っていた。

「どうも、先ほどは助かりました」
「あっ、さっきの。どうでしたか、無事に食事は準備できましたか?」

「ええ、おかげさまで全て滞りなく進みました」
「そうですか、それはよかったです」

そう言いながら軽く会釈をして、彼はその場を立ち去ろうとする。この夜が順調に終わろうとしていることへの満足感も手伝い、私は自分でも思いがけない言葉を彼にかけた。

「あの、何かお礼をさせてください」
「えっ?」

「い、いや、その、火を起こしてもらって、ビールまでいただいて、このままでは」
「いいんですよ、キャンプ場では皆さん協力しあうのが常なんですから」

「しかし・・・・・・」
私が納得できない素振りを見せていると、彼は付き合うようにその場に留まった。そして、少し困ったような顔つきをしながらも、しばらく考え、そして恥ずかしそうに言葉を口にした。

「お礼と言われても・・・・・・」
「どうぞ遠慮なく」

「あの・・・・・・、では、一つだけ、いいですか?」
「どうぞ、こちらでできることなら、何だってさせていただきますよ」

そのときの私に、確固たるアイデアがあったわけではない。半ば勢いで言ってしまった提案なのだ。社交辞令とも言えるような会話が交わせれば、それで十分なはずだった。

だが、彼はその戸惑った様子からは想像もできない言葉を私に投げてきた。

「今夜、少しだけ奥様を貸していただけませんか?」


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Comment
夜はこれからですね
ここからなのですね
何故かビールを飲まなかったのか?
何故執拗に奥さんだったのか
楽しみにしています。

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