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闇の奥からの誘惑(6)

2013 08 26
「今夜、少しだけ奥様を貸していただけませんか?」

彼のその一言は、私が想定していたどのような言葉にも一致はしなかった。炊事場の傍らで、私はただ言葉を詰まらせ、立ち尽くすだけだった。

驚きだけではない。その言葉の持つ意味自体が、私にはすぐに理解できなかったのだ。思わず笑ってしまうような、そんな滑稽ささえ、その時の私は感じていた。

妻を貸すだって? いったい何の目的で私の妻が必要というのか・・・・・・・。

「すみません。変なこと言ってしまったようです」
彼もまた私と同じことを感じていたのかもしれない。撤回するように、笑いながら慌てて言った。

「お礼してもらうようなことが特に思い当たらないので、いろいろ考えたら、つい変なことを・・・・」
「・・・・・・」
「すみません、忘れてください。結構ですから、特にお礼などいただかなくても」

そう言いながら改めてその場を立ち去ろうとする彼に、私は再び声をかける。この会話をこのまま終わらせたくはない。彼の本音を探りたいという願望が、私のどこかにあった。

「あ、あの、ちょっと待ってください・・・・」
「えっ?」

「どうして・・・・・、どうしてそんなことをおっしゃったんですか?」
「さっきの言葉ですか?」
「ええ。私の妻を貸してほしいって、いったいそれ、どういうことなんでしょうか」

気付かぬうちに詰問調になっていた。意識はしていなかったが、午後、川べりで感じた妻への不審な視線への記憶が、私のどこかに残存しているようだった。

「すみません、動揺させるようなことを言ってしまって。いや、特に深い意味はないんです」
「・・・・・・・・・」

午後8時前のキャンプ場だ。照明が輝くこの炊事場は、まだまだ多くのキャンパーたちでにぎわっている。だが、我々の様子に関心を払っている人間は、誰もいなかった。

「実は私、1人でキャンプに来るのが趣味なんです」
「1人で?」

「もうすぐ40になる会社員ですが、結婚もせず、唯一の趣味がバイクにアウトドアなんです」
「バイクにアウトドア・・・・・」

「大人になりきれないんですね。相変わらずこんな風にふらふら好きなことばかり」
「い、いえ、少しうらやましい気もしますよ」

彼の会話に乗せられるように、私は自分でも思ってもいなかった言葉を口にする。ここに来る途中、高速で見かけた何台ものバイクのことを、私はふと思い出した。

「ただ一人で食事をするってのはさすがに寂しいものです。こんなキャンプ場は特にそうです。周囲にはグループや家族でわいわい盛り上がってる客がいっぱいですから」

私には、彼の望みが何となくわかるような気がした。彼は要するに、ちょっとした話し相手が欲しいのかもしれない。それも、女性の話し相手が・・・・・・。

「それで、私の妻を借りたい、と?」
「ええ。食事も終わったので、ビールでも飲みながらどなたかとお話がしたい、なんて」

「・・・・・・・・」
「い、いや、別に奥様じゃなくてもいいですよね。あなたとだって勿論構わなかったんですが」

彼が特に妙な考えを抱いていないことを確認し、私は緊張を解いた。外見、そしてその言動からも、この男に不審な要素は全くなかった。

火を起こしてくれた彼への恩義は決して小さいものではない。それ以上に私は、しかし、先刻から別の感情を抱き始めている自分に気づいていた。

単純な好奇心だ。この提案を聞いた妻が、いったいどんな風に戸惑うのか・・・・。

「せっかくですから、会話の相手は私なんかより女性のほうがいいと思いますよ」
「えっ?」

「私がここで即答するわけにもいきませんから、どうでしょう、直接妻に訊いてみるのは?」
「し、しかし・・・・・・・」

「訊くだけなら問題ありません。さあ、一緒に行きましょう」
「本当ですか? い、いや、しかし、困ったなあ・・・・・・・」

私は何かゲームでも楽しむような気分に包まれながら、彼を伴って自分のテントに戻ることにした。周辺のテントで依然続くキャンプファイヤーの光を頼りに、暗闇の中を歩いていく。

歩きながら、彼の名前が藤原ということを私は確認した。やはり東京方面からの訪問者で、コンピュータ関連の企業に勤務しているとのことだった。

息子を出産して以降、大半の時間を子育てと家庭に割いてきた妻にとって、こんな提案は勿論初めてのことだ。私は、結婚前の妻の生活のことを、改めて想像してみた。

それは、私がよく把握していないものでもあった。バイクを趣味とし、活発な生活を送っていたらしい妻。彼女にとって、私が初めての男でないことは、既に理解している。

だが、その経験が極めて少ないことも、私は確信していた。そもそも、彼女は奔放とはかけ離れたタイプであり、男性への関心にも積極的なところはまるでなかった。

そんな妻のことだ。今夜のこの風変りな提案に対し、困惑するとともに当然のように拒否するだろう。私はそう想像し、単に妻の戸惑う様子への好奇心だけを抱いていた。

テントに着くと、テーブルで一人食事を進めながらも、妻は空になった皿や調理用具の後片付けを始めていた。翔太は相変わらず、テントの中でごろごろしているようだ。

「遅かったのね。懐中電灯がなくても大丈夫だった?」
「ああ、まだまわりのテントはみんな明るいからね」

そう話す私の背後に彼が立っていることを、妻はすぐに認識したようだった。昼間のスーパーで出会った男とすぐに理解した妻は、感謝するように軽く会釈をした。

「こちら、炊事場で会ってさ。ほら、火を起こしていただいた、藤原さんって言うんだけど」
「今晩は、藤原です。無事にお食事はお済みですか?」

「ええ、おかげさまで。主人から聞きましたわ。火を起こしていただいたとか」
「い、いえ、別に大したことはしてませんから」

自ら口にした先ほどの提案をかき消そうとするように、彼は既にこの場を立ち去ろうという雰囲気を漂わせている。私はためらうことなく、妻に言った。

「実は藤原さんに何かお礼ができないかと思って」
「あら、いいじゃない。ここまでしてもらったんだから。ねえ?」
「ああ。そこで彼に希望を聞いたんだけど・・・・・・」

「い、いや、いいですよ、ご主人、もう・・・・・・・・・」
私の言葉を遮ろうとする彼を無視し、私は努めて明るいトーンで言った。

「奥さんと少し時間を過ごしたいっておっしゃるんだけど」
「えっ、奥さんって、まさか、私のこと?」

麻由美はおかしそうに笑みを浮かべた。意外というだけでなく、私は妻の配慮をそこに感じた。藤原の希望をユーモア溢れたものにするためにも、深刻に受け止めるわけにはいかないのだ。

「藤原さんは一人でここに来てるらしいんだよ」
「まあ、お一人で?」

「それで食事の後に、少しおしゃべりがしたいって、まあそういうことじゃないのかな」
私はそういいながら、背後にいる彼に同意を促すように視線を投げた。妻を目の前にし、藤原は完全に恐縮するような態度をとっていた。

当たり障りのない言葉とともに、妻は体よく彼の要求を断るのだろう。もらったビールを返すことを逆に提案するのかもしれない。

白のTシャツの上に、チェック柄の長袖シャツをはおり、デニムをはいた妻。まさかこのキャンプ場でこんな提案を受けるなどとは思ってもおらず、ただ困惑している様子だ。

だが、妻が発した言葉は、私が想像したものとは微妙に異なるものだった。

「せっかくお世話になりましたから、是非お受けしたいんですけど、でも、息子が・・・・・」
妻はそう言いながら、テントの中にいる翔太のほうを見つめた。私の位置からは確認できないが、息子はまだ起きているようだ。

妻の言葉は、私を安堵させると同時に、それ以上の確かな振動で戸惑いを与えるものでもあった。ならば、息子がいなかったら、彼の提案を受けたというのか・・・・・・。

「麻由美、翔太のことなら心配しなくていいさ。どうせすぐに寝るだろう。俺が見てるから」
「でも、あなた・・・・・・・・」

「ここまでしてもらったんだ。それに麻由美自身の気分転換にもなるんじゃないのかな」
「・・・・・・・・・」

自分がそんなことを言うなんて、私は想像だにしていなかった。しかし、自分が妻を追い込んでいるような錯覚にとらわれ、その時の私は妙な刺激を感じ始めてもいた。

かつて味わったことのないその刺激は、私の言動を更に加速させた。

「藤原さん、妻もああ言ってますから、少し付き合ってやってください」
「しかし・・・・・・・・、いいんですか、本当に?・・・・・・・・」
「構いませんよ、私は適当に後片付けをして、息子を寝かしつけてますから、その間だけでも」

椅子に座ったままためらっている妻を、私は半ば強引に立たせ、彼と一緒に時間を過ごすことを促した。妻も最後には、そんな私に合意したようだった。

「じゃあ、あなた、申し訳ないけど、少しの間、行ってくるわね」
「ご主人、申し訳ありません。では、ほんの少しだけ、奥様をお借りします」

そういいながら、藤原のテントの方向にゆっくりと歩き出した二人の後姿を見つめながら、私はふとそのことを思い出し、慌てて妻に声をかけた。

「麻由美、これを持っていけばいい」
それは藤原からもらったビールだった。彼が既に自分の分を飲み干したのかどうか知らないが、妻と過ごす短い時間に、彼がそれを必要とするような気がした。

「あら、そうね。じゃあ、すぐに戻るから」
レジ袋を受け取った妻は、小走りで藤原に追いつき、そして二人は闇の中に消えていった。

事態は意外な方向に向かった。妻のリアクションが想定したものと完全に一致しなかったことに、私は心を揺らし、そして、二人が共にバイクを趣味に持つことに今さら気づく。

胸騒ぎにも似た感覚に包まれながら、私は自らが過去に犯した過ちのことを思い出していた。


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Comment
早く次の展開が知りたい!
No title
過去の過ち?うーん何があったのか知りたいです。凄く気になります。
夫に対して性的な刺激を求められない理由とは?・・・夫婦生活がない時って微妙ですよね。
やばいよね多分ビールなんて飲んでしまったら人妻としてのタガが、外れて
藤原さんの事を新鮮な気持ちで男として意識してしまうかもね。早く早く続きが、気になります。
旦那は何故?
毎日更新を楽しみにしています。
私もバイクに乗っていましたし、共通点が多く、嬉しいです。
ビールが奥さんを変えてしまう、キーワードなのでしょう。暗闇の奥ではーーーーー楽しみです。

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