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闇の奥からの誘惑(25)

2013 10 11
「パパ、ねえ、パパ、もう朝だよ!」

息子の声が現実のものであると私が気付くまでには、随分時間がかかったようだった。激しく揺さぶってくる翔太の勢いが、私の深い眠りを打ち崩そうとしている。

短くも、しかしそれは想像以上に深い眠りだった。私がこのテントに戻ってきたのは、午前2時をまわった頃だったはずだ。今、このテントの中には強い夏の陽光が差し込み始めている。

時計に視線を送り、私は時間を知る。午前6時12分。4時間少々眠っただけのはずが、私にはそれが途方もなく深遠な時間の経過のようにも思えた。

日の出は午前5時前のはずだ。それから既に1時間少々。爽やかな夏の朝の深緑の香りが、テントの内外に漂っている。キャンプ場にいることを、私は改めて思い出す。

昨夜・・・・・。藤原のテントの中で、知らぬ男といた妻の姿が私の脳裏に蘇る。男に際どく追い込まれながら、主導権を奪い返したように彼の欲望を突き放した妻。

甘んじて罰は受ける。でも間違っても服従なんかしない・・・・。そう言い切った妻を、私はそこに置き去りにし、息子を守るためにここに戻ってきた。

結婚直後の私が犯した過ち。それを償うためにこそ、私は昨夜の妻の行為を許そうとした。妻もまた、夫にささやかな復讐を果たすために、別の男に会いにいくことを選択したはずだ。

だが、昨夜それは全て終わった。過去の過ちは清算され、私たち夫婦が新たな一歩を踏み出すために長い夜が遂に明けたのだ。私は自らにそう言い聞かせ、妻の姿を探した。

「翔太、ママはどこだ?」
「えっ、起きたときからいないよ、ママ」

既にテントの外に出て飛び回っている息子がそう答える。妙な予感が私を急速に包む。何かを確認する余裕もなく、私はテントの外に飛び出す。

「翔太、しばらくここで待ってなさい。いいね」
「えっ~、一人で!?」

「ママは歯磨きにでも行ったんじゃないかな。パパ、ちょっと行ってくるから」
「僕も行くよ!」

「いいからお前はここで待ってなさい。ほら、今日帰るんだから後片付けでもしてなさい」
息子を連れて行くことは、どこか不安に思えた。見せてはいけないものを息子に見せてしまうような、そんな危惧が私のどこかにあった。

既に周囲のテントも皆起きて、朝食の準備を始めている。家族連れが多く、こちらのテントの様子も理解しているようだ。この状況で息子に何か危険が迫るとは思えなかった。

不機嫌そうな息子をそこに置いて、私は早足でテントを離れた。特にあてはなかったつもりだが、私は「あの場所」をまっすぐに目指して歩き始めていた。

多くの人々が起き、それぞれの活動を始めている。当然のことだが、それは深夜とは全く違う環境だった。多くの視線の存在が、私の鼓動を自然に高めていく。

妻はいったいどこにいるのか。あの後、テントであの男に何をされたのだろうか。意図的に気付かぬ振りをしてきたそんな質問が、私の理性を強く締め付けてくる。

妻はあの男に最後まで許してしまったのか・・・・・。自らの過ちのことを忘れ、私はそんなことを考えずにはいられなかった。

男に何かをされる妻の姿を想像するだけで、屈辱と戸惑いに包まれてしまう。だが、それを遥かに凌駕する興奮の存在を、私は無視することができなかった。

別の男に犯される妻の姿を、私はどこかで夢想し、待望さえしている・・・・・・。自分自身の屈折した心の迷いを、その時の私はしかし認めようとはしなかった。

管理人棟、そして簡易シャワー棟。早足で過ぎ去り、やがて記憶のある道筋が前方に浮かび上がってくる。森の奥に続くその道を、私は半ば走るように急ぐ。

「麻由美! いるのか!」
気が付けば、私はそう叫んでいた。昨夜、身を隠していた大木を走り抜け、その場所に達した。

いない・・・・・・・・・。

そこにあったはずの藤原のテント、そしてあのオフロードバイク。全て跡形もなく、消え去っている。まるで、昨夜の記憶が全て幻だったとでも告げるように。

どういうことだ・・・・・。もう引き払ったというのか・・・・・・・。私はもう一度妻の名前を周囲の木々に向かって叫んだ。

「麻由美! 俺だ!」
だが、返事が戻ることはなかった。じっとりと汗ばんでくることを感じながら、私はしばらくそこに立ち止まった。朝というのに日差しはもう随分と強い。

どうすべきかわからない。そう思った瞬間、私はふと一つの場所の存在を思い出した。それは、たった今、自分が過ぎ去ってきた場所であった。

きびすを返し、まっすぐに道を戻り始める。さほど遠くないその場所には、数分で到着した。周辺に人の姿はない。私は静かにそこに近づいた。

大半がドアが開いたまま、中に誰もいないことを示している。だが、向かって一番右側の個室だけが、しっかりとドアを閉ざし、そこに誰かがいることを教えていた。

勢いよくシャワーから落ちる湯の音が聞こえてくる。それは、私に妄想を与えるには十分な状況だった。いや、妄想ではない。そこにある現実かもしれないのだ・・・・・。

ドアの向こうで行われていることを想像し、私は更にそこに接近した。耳を澄まし、何かを察知しようとする。息が途切れる音が聞こえたような、そんな感覚が私を拘束する。

幻聴? いや、違う、妻がすぐそこにいるのだ。テントの中にいた、あの男と一緒に・・・・・。私がそんな確信を深めた瞬間、シャワーが止まった。

秘め事を隠すように、中からの音は一切漏れ聞こえてこない。私は息をのんで、そこに立ちすくむ。やがてドアがゆっくりと開き、向こう側の空間が完全に明らかにされた。

「あなた・・・・・・・、どうしたの?・・・・・・・・・・・・」
Tシャツにデニム、そしてバスタオルで髪を包んだ妻がそこにいた。

「麻由美・・・・・・・・・・・・」
「早く目が覚めたから、シャワーでも浴びようと思って・・・・・・・」

そう語る妻の表情には、何ら不審な色はなかった。いつもと変わらぬ妻。美しく、控えめな一人の主婦の姿だけがそこにあった。他の男の気配など、微塵も見当たらない。

「そうか・・・・・。いや、テントにいなかったからどこに行ったんだろうと思って・・・・・・・」
「そうだったの・・・・・・・」

「いや、安心したよ・・・・・・。翔太がいるから、先に戻ってるよ」
「ええ・・・・・・」

今ここで、妻とこれ以上会話を続けるのが、私には苦しかった。互いが何かを隠しあっていることを自覚している。そんな風にぎこちなさが漂う空間から、私はただ逃げたかった。

「ねえ、あなた・・・・・・」
立ち去ろうとした私に、妻が迷いを振り払うように声をかける。振り向いた私に、妻は言った。

「ごめんなさい・・・・・・・・・・・・」
そこに込められた深い意味が、私には理解できた。私が返すべき言葉は、ただ一つだった。

「謝るのは俺のほうだ。そうだよな」
妻の答えを求めることもなく、私はそこを立ち去った。自分の言葉が正しかったのかどうかはわからない。ただ私は、それだけの会話で何かを総括できたような気がしていた。

先刻とは異なり、どこか軽い足取りでテントを目指す。私の姿を見つけた翔太が、全速力で駆け寄ってくる。私はその場に立ち止まり、息子の突進を受け止める。

「パパ!」
「すまん、すまん。ママ、いたよ。やっぱり歯磨きしてた」

そう言いながら、私は息子の手を握りしめ、テントに向かって歩き出した。その時、私は息子が片手に何か白い封筒のようなものを握っていることに気付いた。

「翔太、何持ってるんだ?」
「あっ、さっきねえ、管理人のおじさんがこれ持ってきたよ。パパに渡してって」

「管理人のおじさんが?」
立ち止まり、私は息子からそれを受け取った。どこか胸騒ぎを感じながら、封筒の中身を取り出す。白い便箋に几帳面な字体でびっしりと文章が書かれている。

「パパ、早く行こうよ!」
「待って、翔太」

私はそこから動くことができなかった。手紙の前半部分に書かれた一つの文章が、私の目に飛び込んできたのだ。周囲の光景、そして音が瞬時に消え去り、私だけを置き去りにしていく。

「菊原は結婚していました。彼の妻、千恵香さんの命を奪ったのが私です・・・・・・・」

便箋の最下部にこの手紙の書き手、藤原という姓が、はっきり記されている。


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Comment
菊原の妻と藤原の関係が気になります。
麻由美は利用されただけなんでしょうか。
それにしても、あんなに感じちゃってたんですから罰どころか御褒美ですね。
続きが楽しみです。
No title
これからの 展開楽しみにしてます。

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