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抵抗の果て(6)

2013 12 25
足立理髪店に生じた変化に、気付く客は誰もいなかった。表面上、以前と全く同じ様子で営業を続けているその昔ながらの理髪店には、穏やかさだけが存在しているようだった。

だが、経営者である夫婦の胸の内はそうではない。二人はどこかでずっと恐れている。あの男が、三度この店に姿を現す日のことを。

小野田がここを立ち去った後、その夫婦はしかし、じっくりと話をしたわけではなかった。元々、寡黙な妻、江利子との間に、夫である正則が交わす会話量は多くはない。

江利子は、小野田と居間に閉じこもっていた際、どんな風に説得をされたのか、その詳細を夫に話そうとはしなかった。正則もまた、それをしつこく聞くことはなかった。

「とにかく売ることはできないって、ただそれだけ繰り返したんです・・・・・・・・」
「そうか・・・・・・・・・、それで?・・・・・・・・・・・・・・」

「また来るって言ってましたが、それがいったいいつのことなのか・・・・・・・・・・」
「なるほどな・・・・・・・・・・・・・・・・」

江利子の表情には、疲労と安堵、そして警戒の色が濃厚に浮かんでいる。だが、こちらから打つ手などない。そう考える正則には、男の再訪をただ待つことしかできなかった。

数日、1週間、やがて1か月が経過して新年が明けた。平穏な日々を取り戻したかのような正則は、店の営業を終えた深夜、隣の布団で横になる妻の肉体を、以前にも増して求めようとした。

彼が妻を抱く頻度は多くはなかった。いや、平均よりもかなり少ないと言えるのかもしれない。ここ最近では月に1回あるかどうかというようなペースにまで減っている。

江利子にその行為に対する関心がほとんどない、というのが理由だった。妻は、それを嫌悪しているといってもよかった。正則は、そんな妻の本音をはっきり認識していた。

彼もまた、それが得意なほうではなかった。そんな自覚があるだけに、無理に妻を抱くことさえ、正則にはできなかった。強引な男としての自信を持てるほどの経験が、彼にはなかった。

だが、あの小野田と妻の会話を盗み聞きした後、彼は過去に気付かなかったような欲情を感じ始めていた。それに従うまま、彼は寝入った妻の肢体を見つめ、そこに手を伸ばそうとした。

「江利子・・・・・・・・・・・」
質素な寝巻きに身を包んだ妻は、しかし夫のそんな欲情に応えようとはしなかった。

「あなた・・・・・・・・・・・・、また今度にしてください・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・」

「今日は少し疲れてますから・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・」

結婚から5年経過した今でも、江利子の正則に対する口調は、常に丁寧なものだった。年上の夫、養子としてやってきた夫を常に立てるような控えめな態度を、江利子はずっと貫いている。

店の客に対しての態度と、それは大差ないようにも思える。夜、自らの行為をどこか他人行儀な風な口調で妻に拒絶されてしまうと、正則はどうすることもできなかった。

自分自身が気付いてしまった欲情の正体をはっきりと自覚せぬまま、正則はそれを意図的に抑えこみ、日常の生活に集中することに努めた。

小野田はなかなか現れなかった。

土地買占めの件に、膠着状態に陥ったような感が生じてくる。それがこの界隈に微妙な影響を及ぼしていく。足立理髪店と同様に、反対に転ずる世帯が複数出てきたのだ。

「角の2軒も反対にまわったようだ。これはご主人、ひょっとしたらひょっとするかもな」
正則に得意そうにそう漏らすのは、隣の家電ショップオーナー、宮地であった。

「あそこは2軒とも最初は賛成されてたんですよね」
「渋々だったらしいな。迷うところがもともとあったらしい。2軒とも古いからねえ」

すぐそばで営業するクリーニング店、書店店主の判断が変化したことにつき、宮地は説明を加える。客の応対は妻に任せ、正則は宮地の相手をすべく、店内のソファに座っている。

「しかし、どうして急に反対に転じたんでしょうね」
「それはな、ご主人、どうやらお宅の奥さんが理由らしいよ」

宮地の視線が、客の散髪を行っている江利子に注がれる。彼の言葉は確かに聞こえているはずだが、江利子は全く表情を変えることなく、自らのサービスに集中している。

「妻が理由?」
「ああ。奥さんがかなり強硬な態度で反対しているって、そんな評判が伝わったみたいでね」

「はあ」
「それで、ならば我々も加勢しよう、ってなったらしい」

「そうなんですか・・・・・・・・・・・・」
「奥さんの一途な気持ちが、近隣の皆様の心に響いたんだろうなあ」

ふざけた調子でそう言いながら、宮地はうまそうに煙草をふかしている。その視線の先に、客の洗髪をする江利子の姿がある。依然として、江利子はこちらの会話には見向きもしない。

江利子に対する宮地の形容も、正則にとってはどこか違和感を与えられるものだった。ここで生まれ育った江利子は、宮地にとっては娘のような存在といってもいいはずなのだ。

にもかかわらず、宮地は常に江利子のことを「奥さん」と常に距離を置いた言葉で表現している。決して幼少時代から知っているような素振りを見せることはない。

江利子もそうであった。宮地に対しては、彼女は常に逃げるような態度を貫いている。彼の息子である達樹に対する態度とは、それは真逆のものであった。

その原因が果たして何なのか、正則にはいまだに理解できないでいる。

「しかし、数軒反対が増えたぐらいでどうなることか」
「いや、ご主人、更にもう1軒増えるかもしれませんよ」

「えっ?」
「実は我が家もどうしたものか、と改めて考え直してましてね」

洗髪を終えた高齢の客は、椅子を倒されて横になっている。彼の首筋から肩の辺りに、江利子が丁寧なマッサージを与え始める。

いかにも気持ちよさげに目を閉じ、容姿が評判の人妻店員のサービスを客は堪能している。江利子の上質なマッサージもまた、足立理髪店の大きな魅力の一つである。

「しかし宮地さんのところは既に売却に賛成したはずじゃ・・・・・・」
「達樹がここに来て妙なことを言い出してね」

「達樹君が?」
正則がそう聞いた瞬間、マッサージを進める江利子の手の動きが一瞬止まった。正則も宮地もそれには気付いていない。

「そうなんだよ。どういう風の吹き回しか、急に売るのは反対だって言い出してね」
「そうなんですか・・・・・・」

正則は、先日小野田が来た日のことを思い出した。珍しくあの日、散髪にやってきた達樹は、小野田に部屋に連れ去られた江利子のことを、心配そうに見つめていた。

ひょっとして、それがきっかけで達樹は小野田という男に反対する気になったのかもしれない。正則は、そんな決断を下した隣家の大学生のことを好ましく思った。

「ここで商売やっていても仕方ないからな。こちとら現金が欲しいんだが、息子はねえ」
「それで、どうされるんですか?」

「どうもこうも・・・・・・・・・・・・・」
宮地がそう言いながら、さりげなく外の風景を見つめる。

1月も終わろうという金曜日の昼過ぎだ。晴れ渡った冬空がどこまでも碧く広がっている。商店街を行きかう人々の数はやはり少ないが、それでもどこか楽しげな様子である。

だが、足立理髪店のドアの前に立つ男の姿は、そんな雰囲気からは完全に浮いている。

「また来やがったな、野郎・・・・・・・・・・・」
苦々しく宮地がつぶやく。その視線の先に、あの男が立っている。


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Comment
まさに
今後の展開にあれやこれやと期待します!
素晴らしいです。

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