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抵抗の果て(9)

2014 01 07
「一歩間違っていればもっと深刻な結果になっていたかもしれません」
岩内と名乗る弁護士のその言葉に、すぐに反応するものは誰もいなかった。

その言葉が何を意味しているのか、そこにいる誰もが理解していたのだ。

休業日の足立理髪店の店内に、今、4名が集まっている。店主である足立正則、その妻江利子、隣家で電化ショップを営む宮地、そして彼が連れてきた弁護士の岩内だった。

宮地と同じ50代後半と思われる弁護士を取り囲むように、店内のソファスペースに皆が座っている。ただ、江利子だけが3人と距離を置き、始終床を向いて黙っていた。

「頸動脈からそれほど離れていない場所にカミソリで傷を与えています。相手が殺人未遂で訴えを起こそうとしているのも、決して大げさとはいえません」

「し、しかし、あの男は妻の体に猥褻な行為を与え続けていたんですよ」

「ご主人。お気持ちはわかりますが、それが事実であっても、奥様の立場はあまりに弱いです」

重い沈黙の中、宮地が心配そうに江利子の姿を見つめる。自らの行為が招いたこの事態に混乱を隠せないまま、江利子は憔悴した様子で座り続けている。

あの日のことを正則は改めて思い出す。突然の叫び声をあげた小野田の首筋は、真っ赤な鮮血で染まっていた。その傍らでは、血が付いたカミソリを握りしめたまま、妻が立ち尽くしていた。

すぐに救急車で搬送された小野田は、幸い大事に至ることなく、数日の入院加療で済んだ。だが、その数日後、一通の内容証明が送られてきた。あの男から。

そこにはこう書かれていた。今回の件について、足立江利子を殺人未遂の罪で訴えることを検討している。あれは過失ではなく、明らかな殺傷行為であったとの強い主張だ。

ただし、唯一の条件を呑んでくれるなら示談を考えてやってもいい、との一文も添えられていた。

正則の相談に応じた宮地は、古くからの知り合いという弁護士の岩内を呼び寄せた。そして今日、善後策につき皆で協議をすることになったのだ。

「仮に裁判で争うようなことがあれば、どうなるんだい?」
遠慮ない態度で煙草を吸いながら、宮地が友人の弁護士に聞く。

「厳しいよ。与えた傷が与えた傷だからね。簡単に言い訳ができるようなものではない」
「しかし、近頃の裁判員制度なら、奥さんの気持ちを理解してくれる人もいるだろう」

「すぐに実刑になるなんてことはないかもしれないがね」
「実刑って、お前、脅かす様なことを言うなよ」

「いや、その恐れはないとしてもだな。私が言いたいのは裁判になった場合の影響だよ」
「影響?」

「商売への影響さ。奥さんが殺人未遂の罪で訴えられたなんて評判が立てば、ここの商売は危機的な状況になると思うがね」
「そりゃそうかもしれんが・・・・・・」

「すぐ裁判が終わればいいが、そうもいくまい。噂なんかあっという間に広まるしな」
「噂なあ・・・・・・・・」

「誰も来ないだろう、奥さんが客の首筋をカミソリでかき切ろうとした床屋になんか」
「岩内、おい、口を慎め」

宮地の言葉に、弁護士も自らの饒舌に気付いたように、思わず肩をすくめた。正則はずっと沈黙を続けている。そして、江利子は、肩をわずかに震わせながら、依然床を見つめていた。

「奥さん、まあ、そう気にすることはない。何とか解決策は見つかるさ。あんな男の」
「もういいんです・・・・・・・・」
「えっ?」

宮地の言葉を遮るように、江利子が突然口を開いた。手にはハンカチを握りしめ、何度も指先に力を込めている。あの午後の記憶のことを、想起しているような姿であった。

「全て私の責任です。皆様にはご迷惑をおかけして、何て申し上げたらいいか・・・・・・」
「奥さん・・・・・・・・・・」

「もう覚悟はできていますから・・・・・・・・・・・」
小さな声だが、そこには人妻の確かな意志が込められていた。

「おいおい、奥さん、冷静になってくれなきゃ困るぞ。あんた、まさかあいつの条件を」
「私さえ覚悟を決めれば・・・・・・・・」

「江利子、お前、いいのか、それで・・・・・・・・・・・・」
妻の告白に対し、正則が驚いたように声を発する。

誰もが、小野田の手紙の最終部に書かれた条件を想起している。そこには明記されていた。この店の土地売却に合意をするなら、示談を検討してもいい、と。

あれほど頑なな態度で土地売却に抵抗していた妻が、遂に翻意をするというのだ。正則は、しかし、どこかで安堵する自分を感じてもいた。

妻が売却に合意するなら、同じ反対派に転じた数軒も、再び合意をするのだろう。息子、達樹の説得によって考えを変えた宮地がどう出るのか、正則は彼の顔を見つめた。

「まあ、奥さんが賛成するってのなら、うちの達樹も賛成するかもな」
宮地のこの言葉と共に、その会合はいったんお開きとなった。数日後にもう一度方針を確認し、その後最終的に小野田に回答するという合意と共に。

その夜、寝床に入ってもなお思いつめたような妻の姿に対し、正則はその体を求めようとした。しかし、いつものように妻が夫の誘いに応じることはなかった。

「あなた、すみません、今日は少し疲れていますから・・・・・・・・・」
「そうだな・・・・・・・・・・、しかし、大丈夫か、昼間に言っていたことは・・・・・・・・・」
「はい・・・・・・・、それは私が決心すればいいだけのことです・・・・・・・・・」

江利子の言葉のどこかに引っかかることを感じながら、正則は目を閉じた。すぐ隣で横になる妻がやがて寝息を立て始めたのを確認し、安堵を得た正則もまた、眠りに落ちていった。

しかし、江利子は眠ってなどいなかった。

そっと布団から出た人妻は、静かに階下に降りた。暗闇の居間で自らの携帯電話を手にする。既に登録してある番号を選択し、江利子は息を殺して反応を待った。

「はい・・・・・・・・・・」
「あ、あの・・・・・・・・・・・・、足立でございます・・・・・・・・・・・・・」

「足立?」
「理髪店の足立でございます・・・・・・・・・・・・・・」

「これは驚いたな。まさか奥さんから電話をもらえるとはね」
小野田は勿論、声を聞いた瞬間に、その持ち主があの人妻であることに気付いている。

「頂戴したお手紙のことで、ご相談させていただきたいことがございます」
「あれは譲れないぜ、奥さん」

「どうしても無理でしょうか」
「無理だな」

「別の条件を提示したとしても、でしょうか・・・・・・」
その人妻の声がかすかに震えていることを、小野田が逃すことはなかった。

あの日、僅かに垣間見えた人妻の胸元の白い肌の記憶が、彼の脳裏によみがえる。


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なるほど。
なるほど。

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