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抵抗の果て(60)

2014 06 02
「江利子ちゃんのことは生まれたときから知っているのよ」
「増山さんには昔から随分お世話になったと、江利子から聞いたことがあります」

「私は和代と同い年でね」
「和代?」

正則はそう訊き返した後、すぐに自分がその答えを知っていることに気付く。江利子の母親だ。江利子との結婚前に既に亡くなっていた彼女の母親のことを、正則は深く聞いたことはなかった。

確か江利子が高校生の頃に亡くなったはずだ。交通事故というだけで、詳しいことは何も知らない。母親の死後、江利子の父親が懸命に店を切り盛りしてきたことを知っているだけだ。

「江利子が高校生のとき、確か交通事故で・・・・・」
「そうね・・・・・・。確かに事故だったわ、あれは・・・・・・・・・・・」

二人しかいない閉店後の理髪店内は、あらゆる音を吸い取ってしまうほどの静寂が支配していた。そんな静けさを煽り立てるように、天井のライトが室内を眩しく照らし出している。

何かを思い出すようにしばらく顔を伏せた後、増山は正則を見つめた。

「あなたは勿論、何も知らないわよね」
「えっ?」
「和代、つまり、江利子ちゃんのお母さんのことを」

その瞬間、正則は確かな衝撃を体奥で感じた。自分がずっと知らなかったことがある。正則は、どこかでそんな事実に気づきながら、同時にそれに気づかぬふりをして生きてきた。

今、正則はそれを自分が知ろうとしていることを悟った。

「去年、ここの一帯が大騒ぎになったでしょう」
「例の地上げの件ですか?」

「そう。あれはね、初めてのことじゃないの」
「じゃあ、昔にも同じようなことが・・・・・」

「ここはね、都心からの距離の割には、開発がずっと遅れている地域でしょう。最初に目をつけられたのは、20年以上も前のことよ。江利子ちゃんが中学生の頃かしら」

正則は今更ながら知らされる。妻、江利子が幼少の頃から、ずっとこの場所に住み続けてきたという、紛れもない事実を。この土地は、江利子自身なのだ。

「そのときも全く同じだったの」
「同じ?」

「賛成に流れが傾きかけた中で、一人だけ強硬に抵抗する人がいて」
「まさか・・・・・・・・・・・・」

「そう。和代ね。江利子ちゃんの母親よ」
増山の瞳の奥で、何かが光るのが見える。姿勢をずっと正したまま、彼女は記憶に刻み込まれたページをゆっくりめくるように、慎重な様子で話を続けた。

「清一さん、これは江利子ちゃんの父親だけど、その清一さんと和代は念願のお店を開いたばかりだったわ。だから、彼女には絶対に手放すことなんてできなかった」

不思議な一致だった。20年以上も前、江利子の母親もまた、同じような行動に出ていたのだ。いや、決して不思議ではないのかもしれない。江利子はただ、母親と同じことを・・・・・・。

正則はそんなことを考えながら、いつしか心を揺さぶられている自分に戸惑っていた。

「徹底的に抵抗する和代に、地上げ屋はあらゆる手を使って脅しをかけたわ。清一さんももうやめようって言ってた。でも、和代があきらめることは絶対になかった」

増山の話に、感情の昂ぶりが見え始めた。

「和代はとても綺麗でね。女性の私から見てもうっとりするほど。私たちの年代には珍しくすらっと背が高くてスタイルがよくて、それに、はっきりした顔立ちで」

「江利子に似てるんでしょうか」
正則のその質問を予想していたように、増山はそっと頷いた。

「ええ。よく似てたわ。江利子ちゃんの勝気な性格も、母親である和代譲りよね。とにかく、そんな和代が最後まで抵抗したんだけど、あるとき、急に地上げ屋が撤退したのよ」

「撤退?」

「何でも株が急落したとかバブルが弾けたとかで。確かにそんな時代だったわ。だけど、その後に、この界隈で変な噂が流れ始めたの。和代に関する噂が・・・・・・・・」

「それはいったいどんな・・・・・・・・・・」

「はっきり言うけど・・・・・・・・、和代が地上げ屋の誰かと寝たって。彼女は美しいって評判の自分自身の体を取引に交渉して話がなくなったってね」

正則は、背筋が寒くなるような気がした。江利子・・・・・・・・・・・。江利子はただ、母親と同じ道を愚直なまでに辿っただけだったというのか・・・・・・・・・・・・。

「それは・・・・・・・、本当なんですか?」
江利子と同じように美しかったというその母親のことを想像しながら、正則は訊いた。

「和代は当時40代半ばだった。でもスタイルも若いころと少しも変わらなかったし、逆に女性の魅力は増していたわ。勿論、彼女にその噂のことを私から聞くことなんてできなかった」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「和代は、その騒動の後、明らかに人が変わったの。お店での勤務は続けていたけど、以前の快活さが影を潜めて、口数も少なくなった。私は何度も彼女の相談に乗ろうとしたけど」

「何も話してはくれなかったんですね」

「それがね・・・・・・・、最後には彼女が自分からそれを私に話してくれたの」

「最後?」

「彼女が命を絶つ、前の夜に」

「・・・・・・・・・・」

昨夜と同じだ。こんな商店街なのに、どこからともなく秋の夜の虫の音が聞こえてくる。増山は、深く息を吐き、再び遠くを見つめた。彼女の瞳が確かに潤んでいることに正則は気づいた。

言葉を失った正則に、増山は話を続けた。

「そのことから4年も経過していたから。和代がどういうつもりなのか、そのときの私にはまるでわからなかった。でも、彼女は自分から全てを話してくれたの。ずっと隠し続けていたことをやっと話せる日が来た、っていうような雰囲気でね。彼女ははっきりと私に教えてくれたわ。噂以上のことを自分はしてしまったのって・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「絶対に許されることのない罪を犯したって、彼女は泣きながらずっと繰り返してた」

「絶対に許されることのない、罪・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「清一さん以外の人に、体だけじゃなく、心まで許してしまったって。そんな自分を、ずっとこの4年間責めて、責めて、責め続けてきたって。絶対にそんな自分を許すことができないってね」

増山の話の全てが、正則の脳裏で渦を巻き始めている。激しすぎる混乱が芽生えている。正則は、増山が和代のことを話しているのか、江利子のことを話しているのか、それさえもわからないような気分だった。

「和代は清一さんのことを深く愛していたのね」

「・・・・・・・・・・」

「だからこそ、自分を許すことができなかった。告白相手にどうして私を選んだのか、それはわからないけど・・・・・・。次の日よ、和代がこのお店で自ら命を絶ったのは・・・・・・・・・」

「ずっと、私は・・・・・・、江利子の母親は交通事故で、と・・・・・・・・・」
正則は、妻の行動の真実を初めて知ったような気がした。母親が自らの命を賭けて守り続けた店なのだ。何があっても、手放すことなんてできやしない。

「江利子ちゃんは和代のことが大好きだった。最後はもう親友同士みたいで・・・・・・・」
増山の頬に、一筋の涙が流れ落ちる。彼女はそれをぬぐおうともせず、ただ前を見つめている。増山もまた、この話をずっと心に秘め、隠し続けてきたことを、正則は知る。

増山もまた、大切な親友をそのとき永遠に失ってしまったのだ・・・・・・。

そして、正則は考えを巡らせる。江利子は母親と全く同じ道をたどった。この店を、土地を守るために、自分自身の全てを犠牲にした。そして、夫を裏切ったことに対して激しく・・・・・・・・・・。

まさか・・・・・・・・・・。

「江利子ちゃんは最後まで和代と同じ行動を選択しようとしたんじゃないかしら」
増山が最後に漏らしたその言葉は、その時の正則がまさに心に思い描いていたことだった。

江利子がどのような思いで助手席に乗り込んだのか、正則にはその答えが遂にわかった。


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Comment
母の血
江利子さんは、母親の死の真実を知っていたのですね。そして、小野田との出会いが、江利子さんの中に眠っていた母親の血を目覚めさせ、その激流に飲み込まれていった。最後の夜、絶頂に達した江利子さんが漏らした、「あなた、許して」が、悲しいです。
しんみり
正則さん夫婦に子のいないのが残念なのか、その方がよかったのか、それともそんなことは何も関係ないのか、いろいろ考えさせられますね。

隣家と隣の息子さんの件も気になります。
No title
まだまだ、幕はあるのでしょうか?

これでは正則氏が可哀想です。
増山さんは必要??
江利子さんのお母さんのことは、隣の電気屋のおやじが、よく知っているのでは?
哀しい
少し辛い、結末ですね。
死に至まで、追い詰められていたのですね。
許されることも、ありえたのに
何時も楽しく読ませていただいてます。

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