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夫の秘密、或いは妻の秘め事(22)

2014 10 10
週末の夜、都心は想像以上の混雑だった。

二人の間に会話はなかった。沈黙を貫いたまま、微妙な距離を置いて雑踏を縫うように歩いていく。午後6時になろうとする晩秋の空は、既に暗い色が支配しようとしている。

駅を後にし、次々と信号を渡っていく。周囲の喧騒はどこまで行っても止むことはなかった。二人はしかし、何の反応を示すことなく、ただ黙々と目的地を目指していく。

全てご主人には話しましたから・・・・・・

夫の後を追うように歩きながら、希美子は柴田の言葉を想起していた。それが果たして真実なのか、人妻の心には依然として強い疑問が残っている。

カフェで医師に全てを告白した後、希美子はもう、自分で何も判断できないような気がした。この医師に、夫婦の悩みを全て委ねるしかない。希美子はいつしか、そう考えていた。

そして、全ての計画を柴田が練り出した。希美子の夫が抱える秘密、悩み。それを全て明らかにし、夫婦間で共有した上で、解決に導く。そんな策を、医師は人妻に提案した。

「私、そんなこと・・・・・・・・・」
「奥様、確かに過酷な注文かとは思いますが。ただ、ご主人のお悩みをはっきりさせるには、これぐらいのことをする必要があるのかもしれません」

希美子は、柴田が口にしたような提案を既に想像していた。何日か後、柴田に電話をもらい、その案を聞かされたとき、希美子はその覚悟を思い出し、遂に受け入れた。

だが、夫にはどうやって説明するというのか。人妻の疑問に、柴田は至極簡単そうに答えた。

「私から全てお話ししておきますよ」
「でも、どうやって・・・・・・・・・」

「私が全て準備しますから、ただ奥様を誘ってください、と。そこにどんな方がいて、どんな要求をするのか。それもちゃんと説明をします。ご主人にはご納得いただけるはずです」

医師の言葉を信じれぬまま、希美子は更なる連絡を待った。そして、10日ほど経過した頃に、準備ができた旨の電話があった。全てご主人には話しました、という言葉と共に。

今夜、一人の男が待っているという。希美子は、その詳細を聞かされていない。夫が果たしてどこまで知っているのか、希美子はそれについても何の知識も得ていない。

土曜日の夜、食事に出かけよう。希美子は、夫にそう誘われただけだ。それが何を意味するのか、希美子は濃厚な想像をし、しかし、断ることなど勿論できなかった。

既に15分以上歩いている。一世代前といった印象の強い、著名なシティホテルが目的地だった。その高層の建物が見えてきただけで、希美子は息苦しいような緊張を感じた。

自宅を出てから、ほとんど会話をしていない。妻が今夜のことを既に聞かされている、柴田と何度も会っている、そんな事実を夫は勿論知らない。希美子は、急ぐ夫の後姿を見つめた。

あなた、いったい今、何を考えているの・・・・・・・・

夫婦だというのに、相手が何を考えているのか、まるで想像ができない。それを想像するのが怖いような気がする。希美子は、二人の関係が真に危ういことを改めて感じた。

やがて二人はホテルのロビーに到着した。希美子には、到着してしまった、という形容のほうがあっていた。夫にすがるように、希美子はただ足早に後を追った。

クリスマスにはまだ早いが、広大なロビーにはきらびやかな照明が輝き、大勢の客がいた。外国人の姿も多い。一世代前というよりも、まだまだ最先端の人気ホテルといった印象だ。

「ここで待ち合わせをしているんだ」
秀人が、何かを隠すような静かな声で、希美子にそう言った。

今夜の食事が、仕事関係の知り合いと一緒であることを、希美子は事前に夫から知らされていた。その知り合いに課せられた役割についても、希美子は密かに確信を抱いている。

「梶野さん、こちらですよ」
不意に、希美子たちの背後から声がかかった。希美子は夫と同時に、振り向いた。

高年のスーツ姿の男性が、そこに立っていた。やや小太りで、身長もそれほど高くはない。着古したスーツが、彼の印象をどこか疲れ、不潔なものにしている。

頭髪もかなり後退し、薄くなっている。いったい何歳くらいなのだろうか。60歳は越えているはずだ。希美子はそう感じながら、体奥で僅かな嫌悪感を抱き始めていた。

「岸野さん、すみません、遅くなりました」
夫は、その男のことを岸野と呼び、深々とお辞儀をした。

「私も今来たところですよ。駅からは歩いてきましたか?」
「ええ」
「結構距離がありましたね。久々に歩いて疲れてしまいました」

岸野という名の男は秀人にそう言いながら、希美子のことをちらりと見つめた。何やらその目が好色そうに光った気がして、希美子はそれだけで一層嫌な気分を感じた。

「こちらが奥様、ですか?」
「ええ。今夜ご一緒させていただきます。妻の希美子です」

秀人はためらうことなく、岸野にそう紹介した。夫の淀むことのないその口ぶりに、希美子はかすかなショックを覚えた。妻を別の男に差し出そうとする夫の口ぶりではなかった。

「希美子と申します。いつも主人がお世話になりまして」
感情の乱れを隠したまま、希美子は岸野に向かって自己紹介をした。同時に、希美子は詮索を続けていた。いったい夫と彼がどういう関係なのか。

「いえいえ。こちらこそ助かってるんですよ」
岸野の言葉には、夫との親密さが溢れている。だが、希美子は想像する。恐らく二人は、今日が初対面か、過去にほとんど会ったことがないのではないか。

このような計画に協力をする男性など、そう簡単に見つかるはずがない。柴田がどのようなルートで探したのか想像がつかないが、少なくとも夫の仕事仲間ではないはずだ。

それに、岸野という男には、毎日働いているというような、エネルギッシュな雰囲気はまるでなかった。既に退職し、毎日暇を持て余しているような、そんな怠惰な空気だけがある。

昔、着こなしていたのだろうスーツを、今夜のために引っ張り出してきたのかもしれない。締まりのない体躯は、女性を惑わすような魅力とはまるで無縁だ。

「奥様、今夜はこちらの上にある和食を予約しているんですが、よろしいですかね」
「え、ええ・・・・・・、特に好みはありませんから・・・・・・・」
「それはよかった。じゃ、梶野さん、行きましょうか」

男性に先導され、希美子は夫とともにエレベーターホールに向かった。そして、36階にまで一気に上昇し、そのフロア奥にあるレストランに入った。

鉄板焼きが売りの和食レストランのようだった。店内最奥部の個室が、既に予約してある。掘りごたつ形式の和室の奥には、見事なまでの都心の夜景が広がっている。

「奥様、コートをお脱ぎになりますか?」
岸野に声をかけられ、希美子は思わず戸惑った。

今夜の希美子は薄手の黒色のコート、そしてカシミヤのニットワンピースという姿であった。勿論コートは脱ぐつもりだが、この男にそれを差し出すことに、希美子は強い拒否感を覚えた。

「自分でやりますから結構ですわ」
そう言いながら、希美子は素早くコートを脱ぎ去り、手を差し出そうとしていた岸野を無視し、自分でそれをハンガーにかけた。

希美子は夫と並んで、岸野の前に座った。着物姿の女中が運んできたおしぼりを手にし、岸野は遠慮なさ気に顔面を拭いた。脂ぎった壮年の男の肌が、希美子に不快感を与えた。

いったい、夫は何を考えているのだろうか。希美子は、またそう思わずにはいられなかった。もし、この岸野が妻に何かをしようとしたならば、夫はそれを本当に許すのだろうか。

すぐにそれを止めさせるに違いない。こんな男に妻がいじめられることなど、夫は望んでいないはずだ。柴田は、今夜がすぐに収束することを狙って、敢えてこの男を手配したのかもしれない。

そうだ、きっとそうに違いない・・・・・・。

「奥様、お飲み物はどうされますか?」
希美子の想像を停止させるように、岸野が痰が絡んだ声で聞いてくる。

「あ、私は・・・・・・・・・・」
「とりあえず岸野さんとビールで乾杯しないか、希美子」

夫のその指示に、希美子は何か言うことなどできなかった。ただ、その瞬間に岸野が嬉しそうに笑みを浮かべたことを、希美子は見逃すことはなかった。

「神戸牛に伊勢海老にアワビ。奥様、遠慮なく何でもどうぞ」
ビールを待つ間、岸野はおしぼりを常に握りしめながら、希美子を見つめ続けた。メニューを開いたところで、希美子は集中することなどできなかった。

「恥ずかしいですが、女性とこんな風に食事するなんて何年振りか」
秀人に、或いは希美子に向かうように、岸野はそんな言葉を吐いた。

「妻と別れて20年近く。女性にはもうすっかり縁がないものだと思ってましたが」
視線を細める岸野は、望外なギフトを与えられたかのように、笑みを浮かべている。その光に縛り付けられるように、希美子は座ったまま、動くことさえままならないような気がした。


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Comment
深みに嵌っていく…
希美子さん自身の変化もあり、最初の道から、どんどん外れ、蜘蛛の巣に絡め取られていく。夫、そして柴田。希美子さんの周りには、何が渦巻いているんでしょう。海の家、ダンスホールで、さんざん焦らされてきた希美子さんの体は、いよいよ?

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