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刻み込まれた快感(22)

2015 06 17
朱里がこの事務所を訪問するのは久しぶりのことだった。

裁判が終わり、夫の処遇も確定した今、改めてここに来て世話になった人たちに御礼を述べたい。朱里がそんな気持ちになったのは、至極自然なことと言えた。

忌まわしい事件から既に1年近くが経過している。

あの時の記憶は、朱里の脳裏に鮮明に刻み込まれている。だが、朱里にそれを思い出す勇気はなかった。敢えて封印をし、朱里はそれを知らない自分をここまで演じ続けてきた。

今はもう、あの事件が起こる、いや、彼と出会う以前の自分を取り戻せた気がする。

「いらっしゃいませ。えっと、梶、ですよね?」
「え、ええ・・・・・・・」

受付嬢にそう答えた朱里は、応接室に案内された。都心部にある個人弁護士事務所。電車を乗り継ぎ、自宅から1時間半程度をかけて、朱里はここにやってきた。

個人弁護士事務所とはいっても、規模はなかなかのものだった。スタッフは10名ほどはいるだろうか。皆がせわしげに動き、朱里のことに関心を注ぐ人間はいない。

閉ざされた応接室のドアを見つめながら、朱里は面会者を待った。強い緊張感が、人妻の表情に浮かんでいる。朱里はふと、夫のことを思い出した。

夫もまた、このような密室で過ごしているのだ、と。

「すみません、奥さん、もう少し待ってもらえます?」
突然ドアが開き、男が朱里に声をかけた。

「は、はい。私は大丈夫ですから」
「そうですか」

その口調には遠慮もなければ、親しみも込められてなかった。ぶっきらぼうな彼の口ぶりに、しかし、朱里はもう慣れていた。夫の弁護を依頼した日から、彼はずっと同じ態度を貫いていた。

40代後半の、風貌はあまりさえない男性だった。ややくたびれたスーツ姿で、髪も乱れている。だが、そこに信頼感が漂っていることは確かで、頭が切れそうなタイプにも見えた。

事実、裁判での彼の活躍はすさまじいものがあった。彼の練り出した戦略が世間の支持を得て、結果的に夫を救ったと言ってもよかった。

「お待たせしました。えっと、柏木さん、でしたよね」
「はい・・・・」

部屋に入ってきた男には、あれほどに裁判を重ねた顧客のことを、既に忘れ去っているような雰囲気が漂っている。梶という名の弁護士は、汗を拭きながら朱里の前に座った。

「それで、何かご用件でも?」
「い、いえ、そういうわけではないのですが・・・・。改めて先生に御礼を、と思いまして」

「やだな、奥さん。こっちは仕事だ。高い報酬をもらってるんですから。礼なんか不要ですよ」
梶はそう言いながら、失礼、と漏らし、遠慮なくたばこに火をつけた。

「それで、ご主人はお元気ですか?」
煙を吐きながら、梶はやや落ち着いた様子で朱里を見つめた。

「ええ。先週も面会してきたのですが、大変元気にしておりました」
「まあしばらくの辛抱です。すぐに出所となりますよ」

「やはり1年は・・・・・・」
「ご主人であれば模範囚として、もっと早く出れますよ」

きわめて事務的な様子でそう言う梶に、しかし、朱里は悪い印象は持たなかった。

「先生には本当にお世話になりました。何とお礼を申し上げれば」
朱里は、緊張を感じたまま、目の前の弁護士に言った。

早川を殺害した容疑で告訴された夫、俊二。途方にくれた朱里に救いの手を伸べたのは、かつて書道の世界で世話になった一人の師であった。彼の紹介で、朱里は梶に夫の弁護を頼んだ。

検察側は、妻の以前からの愛人である若い男を、夫が殺意を持って殺した、という説を持ち出した。だが、梶は全く違うシナリオで検察に対抗した。

その人妻は若い男に脅迫され、その日、暴行を受けていた。陵辱行為の被害者である妻を救うべく、夫は男に抵抗したのだ。懸命に妻を救おうとした夫に、殺意があったわけではない、と。

争点は、妻の立場だった。殺害された男との行為が合意の上でのものだったのか、或いは強要されたものだったのか。夫は妻の不貞、不倫行為など、微塵も疑ってはいなかった。

弁護士は夫の言葉を支持した。そして、裁判の前、何度も妻と話を重ねた。

妻の発言は、しかし、当初からはっきりせず、曖昧なものであった。梶は、敢えてそれを深く追求することなく、半ば強引に妻に指示を出した。

「奥さん、ご主人を救うためには、奥さんの証言が必要です」

そして、朱里は弁護士に従った。あの男に暴行されていた自分を、夫が救ってくれたのです。妻のこの証言は、裁判員の心に確かに響いた。

「執行猶予がつかなかったのは未だ納得がいかないんですがね」
目の前の梶が2本目のたばこを咥えるのを、朱里はじっと見つめた。

「傷害致死罪の法定刑が3年以上。そこをご主人の場合には、刑の減軽、更には情状酌量を獲得して、懲役1年3か月としてもらいました。これでも私は納得いってないんですよ、奥さん」

そこに、被告に申し訳ないという感情はなかった。まるでゲームでもやっているかのように、無邪気に悔しがっている弁護士の姿だけがあった。

「先生、十分ですわ。主人も本当に感謝しております」
朱里の口調には、しかし、まだ緊張の色が漂っている。

この弁護士は、本当のところ、あの事件のことをどう思っているのだろうか。

そして、彼は気づいているのだろうか。

夫を救うため、妻が嘘の証言をしたという事実に・・・・・・・・・。

「なんだ、もうこんな時間か」
弁護士はせわしげに腕時計を見ると、そうつぶやいた。

「奥さん、そろそろいいですかね。申し訳ないですが後が詰まってましてね」
たばこをもみ消した梶に、朱里は少し慌てた様子で声をかけた。

「先生、実はその、御礼のことなんですが、主人とも相談しまして・・・・・・・」
緊張気味に話す人妻のことを、弁護士が大した興味もなさそうな顔で見る。


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Comment
第二の男現る。早川に植えつけられた火種が、ご主人の不在をいいことに、燃え上がりそうですね。先ずは、報酬絡みで…。
No title
クズ女ですね!
No title
前作 
夫の秘密 或いは妻の秘め事
に引き続き、澱んだ病人や、SEX中毒者を触られたら感じるという風に描いて終わらせるには卓越した筆力は押し過ぎる。
登場人物の眼は白内障。雲って煌めく時がない。
20年ほど前の精神異常者をモチ-フにした、アメリカ映画のよう。
やるせない どうにもならない 
者同士がなんとなくくっついて離れる? そこには欲望すらない
この気怠さはなんなんだ 底なし沼に吸い込まれるところをせめてでも書いて欲しい。 底なし沼の底に沈んだ男女なんてどんな変化率もありはしない
 不躾ばかりでゴメンナサイ
覗かれる妻~裕子の決意  が大好きです。。。。
No title
やっぱり・・・
結局保身だ、
罰せられるはこの女のはずだろ。

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