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刻み込まれた快感(32)

2015 08 18
「あなた、いってらっしゃい」

玄関先で、柏木朱里は、夫、俊二の頬に軽くキスをした。

結婚して9年、43歳の主婦が48歳の夫にする行為としては、世間の常識からは外れているのかもしれない。

だが、朱里には恥じらいもためらいもなかった。それは抵抗することなく妻の行為を受け止めた夫も同じだった。

懲役を終えて刑務所から出所した夫が、再び会社員としての人生を歩み始めた朝から、ずっと続いている儀式である。

ということは、もう、5年にもなるのだ。

「ああ。行ってくる」
「今夜は?」
「早いと思うよ。食事は大丈夫かな」
「ええ。あなたの好きなものを用意しておくわ」
「へえ、何だろうな」

初々しささえ感じさせる、愛に満ちた夫婦の会話。

5年前、妻は何かに償うかのように、夫に対してそんな態度を貫き始めた。

若かりしころ、書道の世界で名をはせたときの経験を思い出したように、その人妻は強固な意志で自らの記憶を封印した。

だが、体奥にはざらりとした忌まわしい感触が、しつこく残り続けた。

人妻は自我を殺した。

全ての記憶を忘れ去るために、夫への償いを徹底して続けた。

いつしかその態度はきわめて自然なものとなり、あるとき、朱里は夫との距離を再び縮めている自分に気づいた。

やり直せるのだ・・・・・。

人妻の確信は時の経過とともに固まっていき、やがて体奥の妙な感触も消え去っていった。

5年なのだ。

随分と前、この場所で起きた一連の出来事。人妻はもう、意識しなくとも、1日中、それに気づかずに過ごせるようになっていた。

「さて。片付けなきゃ」

台所で洗い物をし、同時に洗濯を進める。

心地よい春の日差しが、窓から降り注いでくる。

まだ43歳。夫婦そろいのコーヒーカップを洗いながら、朱里はふとそんなことを想う。

人生は長いのだ。

これから私にどんな道のりが待ち受けているのか。朱里は今、それが楽しみな気分に満ちていた。

子供はいない。だが、夫と共に、仲睦まじく年老いていけばいい。それほどに幸せな人生を手に入れることは、簡単そうで実はとてつもなく難しい。

人妻は笑みを浮かべる。

それに、「子供」はいるのだ。

「朱里先生、こんにちは!」
「今日は早く終わってまた遊ぼうよ、朱里先生!」

書道教室は盛況だ。

近所の子供の数は、住宅開発が更に郊外にまで拡大されたせいか、相変わらず多い。それに社会人、主婦の生徒もずいぶん増えた。

忌まわしい過去のことを口にする生徒は、もう誰もいない。

書道教室の運営、そして、優しい夫。

完璧な人生を、私は今、ようやく手に入れることができたのだ・・・・。

その日の午後もまた、いつもと変わらぬ光景だった。

小学校中学年を中心に、10名程度が朱里の自宅にやってきた。

時に騒々しく、時に静粛にしながら、子供たちは熱心に字の鍛錬に取り組んだ。

充実した時間は過ぎていくのが早い。

「朱里先生、またね!」
「気をつけて帰るんだよ、みんな!」

自転車に飛び乗って次々に家路に向かう子供たちが見えなくなるまで、朱里は手を振り続けた。

そして、夕食の準備を開始した。

来客を告げるインターフォンが鳴った時、朱里はまだ、平穏な人生の側にいた。

「はい。今行きます」

快活に答え、勢いよく玄関のドアを開けた人妻は、そこに一人の長身の若者が立っているのを見た。

知らない男だった。

「えっと、どちらさまでしょうか」

来客に対してそう言葉を発した後、朱里はある事実に気づいた。

知らない男、ではない。

「まさか、外山君?・・・・・・」

昔、この青年はまだ中学生の頃、朱里の書道教室に通っていた。目の前の人妻が少し笑みを浮かべたことに、若者は恥ずかしげに顔を歪ませて応えた。

「覚えてたんだ、先生」
「忘れるわけないじゃない、外山君のこと」

そう言った後、朱里はその言葉に妙な意味が含まれていることに察知した。一瞬、戸惑いの色を浮かべながら、朱里はそれをかき消すように言葉を続けた。

「もう、大学生?」
「ええ。今年で20歳になりました」
「まあ、びっくりね・・・・・・」
「朱里先生にはいろいろとお世話になりました」
「何を言ってるのよ、ねえ、こんなところで話すのも何だから上がる?」
「い、いえ・・・・、あの先生・・・・・、僕・・・・・・・」

若者はそう言葉を詰まらせたあと、ポケットから1枚の紙片を取り出した。そして、夕食の準備で僅かに濡れた朱里の手をつかむと、それを強引に握らせた。

そして、逃げるように走り去った。

「まあ。外山君ったら・・・・・・」

朱里は玄関を開けたまま、その紙片を開いた。

そこに書かれていたメッセージが、朱里にこの5年間が偽りの幸せであったことを冷酷に教えた。

『朱里先生、僕の筆おろしをお願いできますか。あの日、先生にキスしたときからずっと待っていたんです。朱里先生は筆でいじめられることが好きでしょう。書道の筆のように気持ちいいかわかりませんが、僕の筆も試してもらえますか。今夜10時、必ずここに来てください』

そこには、さほど遠くないアパートの一室の住所が書かれていた。

築きあげてきたものがこんな風に終わることを、朱里は想像もしていなかった。

もう、人妻はあちら側の人生にはいない。

この子、秘密を知っている・・・・・・・。

私自身、忘れ去っていた秘密を、いったい、どうして・・・・・・・。

5年前、肉体に刻み込まれた快感が、急速に朱里の全身に蘇ってきた。


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Comment
No title
外山くんは冗談が好きなんですねw
お疲れさまですp(^-^)q
弁護士さんに中で出されても妊娠してなくてよかったです。四十歳を過ぎても二十歳の学生さんからアプローチがあるなんて、なんだか羨ましい…。
さぁ~シャワー浴びてアパートに行かなきゃね(^^ゞ

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