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LOVE47(6)

2015 10 06
店の階段を昇り終わったとき、葉子は腕時計を見た。

午後11時45分だった。

終電が近づいている。

葉子にとって、そして、彼にとっても。

彼が帰る方向を、葉子はまだ知らない。

今は、それを考えたくはない。

今夜が永遠に続いてくれたらいいのに。

葉子は、まるで少女のような理想を胸の内で抱いていた。

店の中で、いったい私は何を話したのだろう。

年齢は教えた。

既婚者で、主婦で、娘が一人いることも。

夫のことは・・・・。

いや、それは話していない。

話したくなかったから。

彼のことは何を聞いたんだっけ。

名前に年齢、そして勤務場所。

会社名はあえて聞かなかったが、彼は自分から金融関係に勤めていると話してくれた。

独身の彼。

そう、彼は、こうも教えてくれた。

「交際を始めて半年くらいの彼女がいるんです」

「へえ、そうなの・・・・。そうよね、女の子が放っておかないでしょう」

「いや、それはないですけど」

あなた、まさか、ショックだったの?

今夜会ったばかりの若者に交際相手がいるって聞いて。

誰かが自分をあざ笑うような、葉子は、そんな気がした。

そのあと、二人はコンサートの話をたっぷりした。

1時間少々の時間など、あまりに足りなかった。

でも、どうすることもできない。

神保町の駅に向かいながら、葉子は平静を装って彼に聞いた。

雨はまだわずかに降っている。

二人は同じ傘の中。

「明日は仕事早いのかしら?」

「ええ。7時前には家出ますから」

「ふーん。大変ね」

「野畑さんは?」

「えっ、私? 私は、そうね、また日常に戻らなきゃ」

「主婦するんですか」

「娘は自分で勝手に会社に行くし、夫だけだから、別に私がいなくてもいいんだけどね」

「ご主人のお世話、大切じゃないですか」

「そうでもないのよね・・・・・」

葉子の口調に何かを察したように、彼は口を閉ざした。

駅の階段を下り、改札が近づいてくる。

そして、複数の路線に分かれる通路に立つ。

「野畑さんはこちらですか?」

「ええ、そうよ」

答えた瞬間、葉子は後悔した。

「僕はこっちですから」

「あっ、そうなんだ」

終電に急ぐよう、駅のアナウンスが流れる。

小走りに急ぐ多くの人が、二人の脇を走り抜けていく。

互いに何かを伝えようとするように、二人は見つめあった。

何かが体奥で叫んでいる。

葉子はそれを感じた。

だが、47歳の人妻は素直に言葉を紡ぎだすことができなかった。

「じゃあ、お仕事頑張ってね・・・・」

口から出たのは、そんな他愛もない言葉だった。

「ありがとうございました」

「えっ?」

「野畑さんと会えて、うれしかったです」

「・・・・・」

「コンサートよりも思い出に残る気がします」

「・・・・・」

「じゃあ、失礼します」

「こちらこそ楽しかったわよ・・・・・。お仕事、頑張ってね」

「はい」

彼はなかなか立ち去ろうとはしなかった。

葉子は、思わず顔を背けた。

涙が溢れそうだった。

「じゃあね・・・・・」

唇を噛みしめ、葉子はただまっすぐに歩き始めた。

しばらく歩いた後だった。

「野畑さん、これ」

「えっ・・・・・」

葉子の手に傘を握らせたのは、彼だった。

「まだ雨降っていると思いますから」

「でも・・・・・」

「いいんです。安物の傘ですから」

「ちょっと・・・・・・」

「やばい、もう終電出ます。じゃあ、これで」

背を向け、彼は走り始めた。

葉子はその場で傘を握りしめたまま、彼の後ろ姿を見つめた。

彼が、その視線を感じたように立ち止まり、そしてその場で叫んだ。

「またどこかで会いましょう。絶対ですよ!」

笑顔のまま、彼は走り、やがて、通路の奥の階段を駆け足で下りて行った。

葉子はその場から動くことができなかった。

上品そうな黒色の紳士物の傘を、葉子は見た。

名前、連絡先など、そこには勿論何も書かれてはいなかった。

駅の時計は午前12時を過ぎている。

いつまでもこのおとぎ話が続いてほしい。

涙をうっすらと浮かべながら、葉子はそう願った。

傘を渡してくれた時に触れ合った彼の手の感触が、葉子の心にさざ波を与えている。


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