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甘い蜜(2)

2016 07 08
地元の国立大学を卒業した忠彦が市役所で働き始めたのは、もう20年以上も前のことだ。

優等生として過ごしてきた彼は、市役所の中でも将来を大いに嘱望される人材だった。大学で得た知識をそのまま活かすように、彼は建設部に配属された。

以来、45歳になる今年まで土木畑一筋でやってきた。

20代後半に結婚した彼には、4歳年下の妻、そして今年17歳になる一人娘がいる。一人娘は今、高校からの交換留学で海外に滞在している。

彼が室石工務店と接点を持ったのは、まだ20代半ばの頃だった。市の中でも当時は零細といってよかったその工務店は、何とか市役所からの工事受注を得ようと、積極的なアプローチを仕掛けてきた。

最初の頃、忠彦は直接彼らと話す立場にはなかった。だが、ちょうど結婚前後、30歳になる少し前から、彼は市の公共工事入札プロセスに深く関わるようになる。

数十のゼネコン業者が、受注を求め、殺到してくる。いろいろと噂は聞いていたが、入札先が決まるまでの経緯に様々な「不正」が存在するという事実に、忠彦はやがて気づく。

「西浦主任、ですよね」
杉野と名乗る室石工務店の社員が自分の前に現れた日のことを、忠彦は今、ぼんやりと思い出している。

若かった。うぶだった。そして、何よりも金銭的な必要性に迫られていた。

両親の病気が長引き、長女も誕生した。近いうちにマイホームを、と考え始めてもいた。出産後、少しの間妻はパートで働いたが、それでも、金はいくらあっても足りることはなかった。

杉野はそんな忠彦の実態を巧みに察知し、狡猾に誘惑をしてきた。

「公募予定の工事に関する情報を事前に教えてくれませんか」
「そんなことできるわけないでしょう」

同い年であっても、忠彦は立場上、杉野に強く物言いすることはできなかった。そんな弱みと忠彦が生まれ持つ優しさにつけこむように、杉野は攻勢をかけてきた。

最初の頃は飲食の付き合いだけだった。雑談の中で、忠彦はそれとなく彼らが求める情報を漏らすようになっていった。それらの情報を掴める立場にまでなった自分に、忠彦は酔い始めていた。

「西浦主任、まあ飲んでください」
常に自分が祭り上げられる飲食の場は、妙に心地いいものだった。次第に、女性が同席するようなきわどい店にも頻繁に出入りするようになる。

そろそろ引き返さなくては。何度も、忠彦はそう思った。役所の席で、二日酔いの頭を抱えながら、まっとうな自分を取り戻すことを、彼は何度も試みた。

しかし、一度知ってしまった蜜の味を、30代前半の彼が忘れ去ることはできなかった。室石工務店との関係は、清算されるどころか、次第に深く、濃厚なものになっていく。

毎月のように全国の名産品が自宅に届くようになり、泊りがけの温泉旅行にも誘われた。俺が奴らに仕事をまわしてやってるんだ。これぐらいは当然だろう。忠彦の理性は、既に麻痺していた。

「最近、室石の受注が増えたな」
こんな声が、役所の中で交わされるようになった頃、忠彦は既に、杉野から定期的に封筒をもらうようになっていた。

それは病に臥せっていた両親の治療費となり、娘の養育費となり、マイホームの頭金の一助となった。室石工務店は事業を拡大させ、役所の中の忠彦の立場も、順調に上昇していった。

室石工務店の経理部長、内藤とは、数えるほどしか会っていない。だが、彼が、贈賄行為の全てを把握していることを、忠彦は杉野から後に聞かされた。

その内藤が、突然室石を辞めたというのだ。忠彦は、この日、杉野を慌てて呼び出した。

「課長さん、合計でいくらぐらいだと思う?」
「何が・・・・・」

忠彦は、気づかぬふりをしてそう言った。目の前のアイスコーヒーには、まだ手もつけていない。

「室石からのお支払ですよ。課長さんへの」
「・・・・・・・・・・」

「1千万は軽く」
「いいかげんにしないか!」

声を荒げた忠彦のことを、周囲の客が再び迷惑そうに見つめる。小さくなった氷をストローで転がしながら、杉野は忠彦を見つめ、ささやいた。

「誰かに見られちゃ、あまりよろしくないでしょう、課長さん」
「・・・・・・・・・」

「内藤が口を割るようなことはない。心配無用ですよ。勿論、我々だって、そんなことは何があっても言えない。課長さん、これはね、両者がリスクをわかちあってるんだ。あんただけ転落するようなことにはならないさ」

転落という言葉が、忠彦の脳裏に冷たく響く。

彼が口にした言葉を心の中で繰り返しながら、忠彦は杉野を見つめた。その視線には、かつてないほどの怒りの感情が宿っているようにも見えた。

「杉野さん、二人でこうやって会うのは今日限りとしましょう」
忠彦の言葉に、杉野は嘲笑するような表情を浮かべた。

「どうせ課長さんからまた接近してくるでしょうに」
「・・・・・・・」
「ただ、しばらくはお互いおとなしくしたほうがいいかもしれないね。最近は世間でも公務員の不正がうるさく報道されてるでしょう」

立ち上がった杉野は、忠彦を見下ろし、大きく息を吐いた。

「じゃ、課長さん、俺、行くわ。ごちそうさん」
足早に喫茶店を出る杉野の後ろ姿を、忠彦は呆然と見送った。

大丈夫だ。何も起こるわけがない。そう言い聞かせながらも、忠彦は、別の声がこうささやきかけてくるのも感じていた。

順調に歩み続けた人生の階段から転落したのはあの日だった。お前はいつか、今日という日をそう思い出すに違いない。


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