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甘い蜜(8)

2016 07 22
その日、忠彦は仕事が手につかなかった。

夏休み明け初日だから、というのではない。その日の朝、内藤のもたらした情報が、忠彦をじわじわと苦しめ続けていた。

妻に職場から電話をする勇気はなかった。

だが、その夜帰宅した忠彦は、聞かずにはいられなかった。

「正代、この前の内藤さんのことなんだが」
「内藤さん?」

夕食をテーブルにてきぱきと並べながら、正代は明るい口調で夫に答えた。とぼけているような空気もなければ、その話題を避けようとしているようにも聞こえない。

「ほら、駅前のスイーツを買ってきてくれた」
「あら、あなた、もうあのスイーツ全部食べちゃったわよ。残念ねえ」

「いや、そういうんじゃなくてさ」
どうも話しにくい。

だが、忠彦は既に安堵を感じ始めていた。妻には何かを意図的に隠しているようなところはない。夫に対する罪の意識だって、まるでない。

そんな確信が、忠彦の気を楽にさせた。

「あのとき、内藤さんってコーヒーまで飲んでいかれたのかい?」
忠彦の言葉に対し、正代は全く動揺する様子はなかった。

「あら、私、言わなかったかしら」
「そんな風には聞かなかったけど」

「だってね、あの方、何だか時間に余裕があるような雰囲気たっぷりで、それに、わざわざあんなものを頂いちゃったから」
「スイーツ効果ってやつか」

「そうなの。私もつい、お茶でもいかがですか、なんてお誘いしたら、じゃ、お言葉に甘えようかなって」
「そうか・・・・・・・」

「初めてお会いしたけど、とても感じのいい方だったし、それに」
どこか嬉しそうに話す妻の様子に戸惑いながら、忠彦は続きを待った。

「お仕事であなたがお世話になっている方でしょう。当然、接待しなきゃ、って思ってね、私だって」
接待という言葉が妻の口から出ると、忠彦には心を波立たせずにはいられなかった。

「あなた、あの方、いつもあんな感じなの?」
「えっ?」

「すごくお話し面白くて、それでいて、お仕事もできそうな方で」
「まあ、そうかな・・・・・・・・・」

夕食の席につきながら、忠彦は再び混乱を感じ始めていた。これ以上、妻の口から内藤を褒めるような言葉を聞きたくはなかった。ささやかな怒りが、忠彦の発言を大胆にさせた。

「で、どれぐらいいたんだい、内藤さんは」
「そうね、30分くらいかしら」

「コーヒー飲んでいっただけだよな、勿論」
「えっ、そうだけど・・・・・・・・・」

「他に何か要求されたわけじゃ」
「やだ、あなた、そんなこと何もなかったわよ」

「そうか。ならいいんだ・・・・・・・・・・・・」

これ以上追及すれば、妻に変に思われてしまうだけだ。忠彦は安堵と戸惑いを混在させたまま、夕食を始めた。

「そういえば、内藤さん、最近離婚されたっておっしゃってたけど、本当なの?」
「えっ?」

妻のさりげない言葉に、忠彦は箸を止めた。

「この年で離婚なんて恥ずかしい限りで、って自虐的におっしゃってたわよ。あなたにもいろいろ言われたっておっしゃってたわ」

笑みを浮かべながら、正代は軽い調子で話し続けている。

「そんなこと、内藤さん言ってたのか?」
「ええ。家族はいいですよねとか、そんな会話になったから。つい、私が聞いちゃって」

「他には?」
「えっ?」

「他に何か言ってなかったか、内藤さんは」
「そうね・・・・・、別に思い出せないけど・・・・・・・・・。でも離婚されていろいろ大変そうだったわよ・・・・・・・・・」

忠彦は想像した。妻の目の前でコーヒーを呑みながら饒舌にしゃべるあの男の姿を。人妻である正代の躰を、密かに観察するように見つめるあの男の姿を。

そして、夫以外の男からの好色な視線を感じる妻・・・・・・・。

課長の奥さんがあんなにお綺麗だとはね。

なかなか色っぽい躰してるねえ、奥さん。

今朝の内藤の言葉が、忠彦を苦悶させるように再び響く。

ほんの序章なのかもしれない。

忠彦は、ふとそんなことを思い、懸命にそれを否定しようとした。

その不安が間違っていなかったことを知ったのは、それから2週間ほど後のことだった。

内藤が、再び忠彦の自宅を訪れた。


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