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甘い蜜(12)

2016 08 05
「私と内藤さんと二人きりで?」

帰宅した忠彦は、妻、正代に内藤との食事のことを伝えた。

近いうちに一度、内藤さんと食事に行ってくれないか。いや、俺は行かない。正代と内藤さん、二人きりでだ。

正代は驚き、戸惑った風に声をあげた。妻のそんな反応は、忠彦にとっては、僅かだが救いになった。

この提案に、妻は歓迎するような態度で応えるのかもしれない。嬉しいわ、どこに行くのかしら、などと楽しそうに反応されたなら、俺はいったいどれほどの混乱に巻き込まれるのか。

少なくとも、そんな不安は払拭された。妻は、明らかに困惑しているのだ。

「あなたは行かないのかしら」
不安を隠そうともせず、正代は夫を見つめている。

「そうだな。俺は今回は参加しない」
「そんな・・・・・・、そんな、私だけって・・・・・・・・・・・・」

自宅であれほど二人きりの時間を過ごした相手でも、やはり二人きりで外に食事に出かけるとなると、別らしい。正代は夫にその提案の真意を探ろうとするように聞いた。

「今まであなたの大切な取引先の方とでも、私、そんな風に二人きりで出かけたことなんかなかったわ」
「そうだな」

「今回は特別ってこと?」
「内藤さんにはいろいろとお世話になっているからな」

内藤に過去を暴露させるわけにはいかない。忠彦の心の底には、そんな危惧が大きく横たわっている。

「正代も勿論知っていると思うが、俺の仕事上、まわりは俺を接待したり、持ち上げたりしようとするのが普通だ。ここにいろいろ贈り物が届くだろう」

「それは私だってわかってますけど・・・・・」
「ただ、内藤さんは少し・・・・・・」

「他の人とは違うのかしら」
「ああ。あの人は特別でね。俺にとっては大切な顧客だから、いつもとは違ってこちらからできる限りのことはしなくちゃ、って思ってな」

「じゃあ、私と二人きりで食事を、っていうのも?」
「俺から提案したんだ」

「えっ、あなたから?」
「ああ」

忠彦は、とっさに嘘をついた。内藤から妻に強烈なアプローチがあったのだ、という事実を、忠彦はなぜか素直に伝えることができなかった。

妻に、内藤の抱いているであろう気持ちを教えたくはない。

「この前の業者会の夜、内藤さんここに来たじゃないか。あのとき、随分楽しそうにしてたからね」
「それはそうだけど・・・・・・」

「離婚したばかりで、何かにつけて言うんだよ、あの人、『奥様がいらっしゃっていいですねえ』、ってな」

忠彦は、間接的に内藤の好意を妻に教えてしまっていることに気付いたが、取り消すわけにはいかなかった。

「だからあなたがそんなことを提案したの?」
「まあ、1回ぐらい、付き合ってやってくれないか」

「何だか気が進まないわ・・・・・。内藤さん、勿論いい方なんだけど、でもねえ、二人きりで食事だなんて。それって夜なのよね?」
「そうなるだろうな」

「いったいどんなところに行くのかしら」
「さあ。少なくとも、正代は支払いは不要だと思うよ」

「えっ、そんなの、なおさらおかしいわ」
「その代わり、あの方をしっかりと接待してやってくれよ」

二人はずっと玄関先で立ったまま、話をしている。正代とのそれ以上の会話を避けるように、忠彦はかばんを妻に預け、ダイニングに向かった。

「接待ってあなた・・・・・・・」
不安そうに後からついてくる正代が、忠彦の背中に声をかける。

「私、そんなことできないわよ。ホステスさんじゃないんだから」
妻の言葉に、忠彦は僅かに冷静さを失った。ホステスという単語が、妙な風に響いたのだ。

「接待って、何も特別なことをする必要はないさ」
「適当にお酌してお酒に付き合ってあげればいいのかしら」

「それで十分だよ。それで喜ぶさ、あの人も」
「だといいんだけどねえ」

最後まで、妻の戸惑いが消え去ることはなかった。

楽しみにしてるような雰囲気はない。内藤との外食という提案に、正代はまだ、どう対処していいか、わからないようだった。

不安を感じながらも、忠彦はそれを上回る安堵を得た。

これならば、内藤が妻に何を要求しようと大丈夫だろう。

そんな安堵が、忠彦にこう言わせた。

「大切な方だからな。お願いされたことに素直に応えてくれればそれでいいさ」
「素直に応えろ、ねえ・・・・・・・」

その言葉を妻がどうとらえたのかどうか、そのときの忠彦にはまだわからなかった。

内藤から正代への正式な誘いが届いたのは、それから2週間後だった。


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