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甘い蜜(17)

2016 09 02
「すみません、突然」
玄関先の内藤は洗練されたスーツ姿だった。足元では、磨き上げられた革靴が光っている。

40代後半には見えない。随分、若々しい雰囲気である。

「まあ、内藤さん・・・・・・」
彼の姿を見た瞬間、この1か月ほどで取り戻していた心の平穏を、正代は失った。それは、今日という日が、正代にとって日常とは異なるものになることを意味していた。

「お邪魔でしたか?」
「い、いえ・・・・・・」

「またその先のビル工事現場に用がありましてね」
「そうでしたか」

「奥さん、どうされてるかなって、ふと思ったんですよ」

会話をどう続けるべきか、或いは、終えるべきか。正代にはわからなかった。男に、すぐに帰る気配はない。その場の妙な雰囲気を避けようとするように、正代は笑みを浮かべ、声をかけた。

「どうぞ、おあがりになってくださいな。お茶でもいかがですか」
「すみません、いつも。じゃ、お言葉に甘えて」

昼間から、こんな風に自宅に夫以外の男を招き入れるなんて、普通じゃないのだろう。だが、夫の仕事上、この自宅を取引先の連中が訪問するのは珍しくはなかった。

たいてい、彼らは贈り物を手にここにやってきた。毎回ありがたくそれを頂戴しながら、正代が彼らを自宅で接待することも少なくはなかった。

だが、今日は違う。相手が内藤だ。それに、夫の仕事に関係した訪問ではなさそうだ・・・・・・。

「今、お茶を入れますわ。そちらでお待ちください」
「申し訳ないですな、奥さん」

台所で、正代は緊張気味にコーヒーを用意した。適当な菓子と一緒に、正代は彼のもとにそれを運んだ。彼は、ダイニングのテーブルに座っている。

「どうぞ」
コーヒーを差し出しながら、正代は彼の向かい側に座った。そして、彼を見つめ、先日の礼を口にした。

「このあいだはすっかりご馳走になってしまい、申し訳ありませんでした」
「いや、無理に食事などお願いしたのはこちらのほうですから」

「とてもおいしかったですわ。それにお酒までいただいてしまって」
「課長さんとは一緒に飲まれないんですか?」

「ええ、主人とはほとんど」
「そうですか。どうりで奥さん、あの時少し酔ってらっしゃったように見えましたね」

「恥ずかしいですわ・・・・・・・・・・」
「今度はもっと酔った奥さんが見てみたいものです」

内藤の言葉に、正代は頬を赤らめずにはいられなかった。彼は明らかに、別れ際の行為のことを言っているのだ。あのとき私が感じてしまった妙な気分。それに、彼は気付いている・・・・・・。

「あの夜はすぐにお帰りになりましたか?」
「え、ええ。勿論。主人も待ってましたから・・・・・・」

「私はあの後、もう一軒で深酒しましたね」
「まあ・・・・・・・・」

「どうも、気分が落ち着きませんで、とても眠れるような感じではなかったですから」
「・・・・・・・・」

「奥さんと一緒に過ごしたせいか、久しぶりに興奮してたのかもしれません」

正代は座ったまま、ダイニングテーブルに視線を落とした。目の前の彼のことを見つめることが苦しかった。

「奥さんは眠れましたか?」
「えっ?」

「あの夜ですよ。よく眠れましたか?」
「え、ええ・・・・・・・。お酒も飲みましたから・・・・・・・・・・・・」

猥褻な夢の記憶が、正代の脳裏に色濃く蘇ってきた。自分自身のものとは思えない、あられもない嬌声が、どこかから聞こえてくるような気がする。

「あのことは課長さんには言ったんですか?」
「何のことでしょう・・・・・・・・」

「私に手を握られたことですよ」

嘘を言おうかと思った。だが、どういうわけか、内藤には全て見透かされているような気がした。コーヒーカップを握りしめたまま、正代は告白した。

「い、いえ・・・・・・・」
「言ってないんですね?」

人妻は小さくうなずいた。

「奥さん、秘密ができてしまいましたね」
「いえ、そういうわけじゃ・・・・・・・・」

「いいんですよ。あれは私と奥さんだけの秘密にしておきましょう」
「・・・・・・・・・」

「自分の妻が別の男に一瞬でも手を握られたなんて、夫には心穏やかな話ではないですからね」

内藤は、正代の肢体をテーブル越しに意味深に見つめながらつぶやいた。秘密、という言葉の響きが、正代の息遣いを僅かに乱している。

「今日、私がここに来たことは、課長さんに言うつもりですか?」
「それは・・・・・・・・・」

正代にはわからなかった。夫に内藤の訪問のことを、話すべきかどうか。

「手を見せてください、奥さん」
「えっ?」

唐突な要求に、正代は思わず彼を見つめた。

「あの夜の秘密の原因、奥さんの罪作りな手ですよ」
内藤の冗談めいた言葉に、正代はかすかな安堵を感じながらも、笑みを浮かべることしかできなかった。

「いやですわ、内藤さん」
「恥ずかしいんですか?」

「だって・・・・・・・・」
「内藤さんの要求にはなんでも応えろって、課長さんに言われたんですよね?」

男の言葉に深刻な雰囲気はなく、まだふざけたような色があった。

「見るだけですよ、奥さん」
「別に見せるほどのものでは・・・・・・」

正代はそう声を漏らしながらも、目の前に座る男に右手を差し出した。

その機会を逃がさぬように、内藤の左手が素早く伸びた。

「内藤さん、駄目ですってば・・・・・・」
「いいから奥さん、動かないで」

正代の手に触れた彼の指先が、手のひらを優しく揉んだ。その瞬間、正代の全身を妖しげな震えが走り抜けた。

「今日のことも課長さんには秘密にしておいたほうがいいみたいですな、奥さん」
彼の本格的な愛撫が始まった。


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