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甘い蜜(23)

2016 10 14
だが、その日彼がやってくることはなかった。

電話もなければ、昨夜以降、メールも一切ない。

以前のように、突然玄関のドアフォンが響くこともなかった。

それは、しかし、ますます彼に追い詰められていくような、妙な切迫感を正代に与えるものだった。

内藤と知り合ってから、自分の中の「女」が、変に目覚めてしまったような気がする。

「奥さんをいただくことにしました」

昨夜、彼に送りつけられたメッセージ。

既に正代はそれを削除したが、しかし、人妻の肉体には彼から届いた脅迫めいた台詞が濃厚に刻み込まれている。

ふくよかな乳房に、そして、夫以外の男には見せることのできない秘めた窪みに。

夫に言うことはできない。夫は、あの男に弱みを握られているのだ。

だが、正代は、「夫を救うために、私がそれをしなくてはいけない」とは、どうしても思いたくはなかった。

手のひらに与えられたマッサージ。あの午後教えられた感覚が、人妻の躰を妙に疼かせている。

自分の肉体が、どこかでより深く、淫靡な刺激を欲しがっている。

もっと・・・・・

それでもやはり、内藤との関係にこれ以上深入りすることは、正代にはできない相談だった。

一度許してしまったなら、二度と後戻りはできない。

今の生活は間違いなく破滅に向かうだろう。

追い込まれてもなお、人妻にはそう考える余裕が残っていた。

内藤の「焦らし」は、不自然なほどに続いた。

1日が経過し、3日、そして1週間。

内藤からのアプローチは、あの夜以降、ぱったりと途絶えた。

寝室の棚の引き出しの奥。

そこに隠されたランジェリーだけが、まるで時限爆弾のように、眠り続けている。

彼のアプローチをどこかで恐れ、そして、どこかで待ちながら、正代にはその下着を捨てることができなかった。

いつの日か、自分はそれを身につけねばならぬ日が来る。

何かが、正代にそうささやき続けている。

すっかり冬の気配が深まってきた年末のある日のこと、帰宅した夫は正代に声をかけた。

その声色は妙に明るいものだった。

「内藤さんっていたじゃないか」

「えっ?」

正代は、突然その名前が出たことに戸惑いながらも、夫のスーツをいつもどおりに受け取り、平静な表情のまま、彼を見つめた。

いたじゃないか、という過去形が、正代の不安と安堵を同時に揺さぶった。

「私が食事をご一緒した、あの内藤さん?」

「ああ。あの人な、また会社解雇されたらしいぞ」

「解雇?・・・・・・またって、あなた・・・・・・・・・」

「あの人な、実は前にいた室石工務店で経理上で不正なことをいろいろやらかしてな。その責任を取って、実質解雇のような形で辞めたんだよ。それなりの退職金はもらったらしいが」

「まあ・・・・・・・」

夫に関わる不正なのだろうか。夫の「収賄」に協力したと断言していた内藤なのだ。

「新しい会社でもまた何か不正を働いたらしい。それで今度は即解雇になったそうだ。どうりで最近連絡がないと思っていたが」

「それで、どうされるのかしら・・・・・・」

「気になるのか?」

「えっ?」

正代は、言葉を詰まらせた。しかし、夫の問いかけには深い意味はないようだった。妻とあの男との変な関係を、これ以上心配しなくていいとでもいうような、確かな安堵が夫の言葉には満ちていた。

「どうもこうも行方不明らしい」

「・・・・・・・」

「離婚もして家族もいないからな。どこへ行くやらわからないが。俺も2度と会うことはないかもしれないな」

夫の言葉には、そうあってほしいという願望が込められているように聞こえた。

「わからないわね、人間どうなるか・・・・」

自らのつぶやきが、正代には誰に対してのものなのか、判断ができなかった。

自分自身にいつの日かそんな言葉が舞い戻ってくるような気がする。

内藤ともう会うことはないのだろうか・・・・・・・。

正代は、確かな不安を抱えたまま、夫の夕食をテーブルに並べ始めた。

「そういえば、内藤さんが解雇された会社が手掛けたビルが、ここから少し先にもうすぐ完成するらしい。その関係であの人、建設中にこの辺りによく顔出してただろう」

夫の言葉を、その時の正代ははっきりと聞いてはいなかった。


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