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甘い蜜(24)

2016 10 21
家計の様子が何かおかしい。正代はここ数か月の間、そんな気配を感じつつあった。

日々が平穏すぎるから、そんなことまで気づいてしまうのかしら。

夫の仕事に変わりはない。以前と変わらず市役所土木課での忙しい日々を送っている。給与が下がったという事実もない。

正代自身の生活に変化が生じたわけでもない。華美な行動をとることなく、平凡な日々を過ごしている。

1年間の交換留学で海外に滞在している一人娘は、早いものでもうすぐ帰国だ。

季節は変わり、春の爽やかな日差しが次第に強い光線に変わろうとしていた。

正代の脳裏に、既にあの男の記憶は存在してはいない。

内藤が勤務先を解雇されたという話を夫に聞かされてから、半年以上が経過した。

彼からのコンタクトは途絶えた。夫も、それ以降の内藤の消息に関する話を一切しなかった。

当初、正代は強い不安を感じていたものだった。

職を失い、自由に行動できるようになった彼が、飢えた野獣のように自暴自棄になって、金銭を、そして体を狙って強引なアプローチを挑んでこないだろうか。

しばらくの間、正代はそんな悩みに怯えつつ、それを夫に懸命に隠し続けた。

だが、内藤は正代の前から完全に姿を消した。

「奥さんをいただくことにしました」

正代を長い間翻弄したあのメッセージも、今はもう過去の遺物のように思える。

春が終わり、夏が始まろうとしている。内藤の接近という恐れから解放された日々。ある意味でそれは平穏を意味し、そして同時に、確かな退屈を人妻に与えていた。

熱を帯びた妖しい刺激と無縁な日々に戻った正代が気づいたのが、家計の状況だった。

「おかしいわ」

確かにおかしかった。それは、夫婦で管理している銀行口座の残高が下降している事実からも明らかだった。

やがて正代は気づいた。夫の出費が以前よりも増えているらしいことに。

ここ半年ほど、夫の個人的な出費が以前よりも増えている。それに気付きながら、しかし、正代は夫に問い質すこともできないまま、毎日を過ごしていた。

そんな、ある日。

それは梅雨の合間のよく晴れた日の午後だった。とある用件で外出し、駅から自宅に戻ろうとした正代は、どういうわけか、いつもとは違う道を選んだ。

その午後、自宅には遠回りとなる道を選択した理由。随分後になってから、正代はそれについて考えたが、答えは見つからなかった。

気分転換という簡単な理由だったのかもしれない。だが、実際には何かに引き寄せられるように、その日の午後、正代は違う道を選んだ。

最近はあまり歩いたことのない道。静かな住宅街だったが、正代には過去の記憶と随分異なる家並に驚きながら、歩き続けた。

自宅までまだしばらく、という場所にさしかかったとき、正代は前方の道に風船を持った数人の男性がいることに気づいた。

「何かしら」
興味深く彼らを見つめながらも、正代は何となく想像はできた。どうやらしばらく前にそこに完成したマンションを宣伝しているらしい。

「奥様、新築マンションの紹介です」
腕に腕章をつけた若い男性が、正代に広告を差し出しながら笑顔で声をかけてきた。この暑いのに、スーツ姿だ。

4階建てだろうか。低層マンションと呼べそうなクリーム色のその新築建物は、紛れもない高級物件に見える。

「あいにく持ち家なんです。高いローン出して無理しましたから」
正代は感じのよさそうな彼にそう答えた。

「どうでしょう。こちらのマンションに買い替えるというのは?」
「いや、それはちょっとねえ」

「間取りもかなり贅沢な広さになっておりますよ」
「あら、そうなの?」

正代が若いセールスマンをからかうように笑いながら会話をしていると、背後から別の男性が声をかけてきた。

「失礼ですが、この近くにお住まいですか、奥様」
「ええ、随分前に越してきたんですけど」

「失礼ついでに更に聞いてしまいますが、専業主婦でいらっしゃいますか」
「はい」

「あの、突然で申し訳ないんですが、少し、我々にお力添えいただくことはできないでしょうか?」
「どういうことかしら」

正代が、そのマンション1階脇に臨時に設けられた小屋から出てきたのは、およそ30分後のことだった。

「では奥様、来週金曜日の正午にお待ちしております」
「主人に聞いて、もし無理そうなら辞退させてもらいますわ」

「それは構いませんので。ただ、奥様以上に我々のイメージに合致するモデルの方はいらっしゃいませんよ」
「お上手ね」

帰り道、正代はどこか楽し気な雰囲気を漂わせていた。何の気なしにこの道を選んだけど、案外よかったのかも。足取りが軽くなったのを感じつつ、正代は自宅に向かった。

「このマンションに住む奥様役として、半日間モデルになっていただけませんか」

マンションの宣伝素材に使うために、主婦のモデルを探している。プロのモデルではなく、実際に主婦として活躍されている奥様にお願いしたいのだ。

半日間だけ、ここのマンションの一室を使って撮影をさせていただきたい。炊事、掃除をしたり、リビングでくつろいだりする奥様の姿を、普段通りに見せていただければそれでいい。

勿論、それなりの報酬はさせていただきます。

マンション側の男性は、正代にそんな口説き文句で勧誘をしてきた。

普通に考えれば、そんな話に乗るような自分ではない。正代はそれをわかっているだけに、いつしか彼の話に引き込まれ、承諾までした自分が不思議だった。

お金のせいなのかもしれない。提示された報酬は、正代の想像を遥かに超えた金額だった。

でも、それだけではない。

刺激。

内藤が姿を消してから、自分が何か物足りなさを感じていることを、正代は感じていた。

息が苦しくなるほど、限界にまで追いつめられるような刺激。

それほどに激しく、危険を感じるものはごめんだが、ささやかな変化ぐらい主婦の生活にあってもいい。

思いがけずにもらった提案が、正代には、そんなチャンスを与えてくれるような気がした。

「いいよ、お前がやりたければ。お金にもなるのならなおさらいいじゃないか」

帰宅した夫は、妻の話をあっさりと許した。

自分に対する夫の無関心が最近特に加速していくことを感じつつ、正代はだからこそ、刺激が欲しいという気分を募らせた。

私がカメラの前でモデルとして振舞うなんて。

半日だけ、いつもとは違う自分になれるのかもしれない。

そうね、どうせ違う自分になるのなら・・・・。

正代は、あるものの存在を思い出した。


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