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甘い蜜(25)

2016 10 25
翌週の金曜日、正代の足取りは軽かった。約束の時刻は正午であったが、早めのランチを終えた正代は、11時半過ぎには目的地に着いた。

駐車場スペースに設けられた臨時のプレハブ小屋に、人の気配はなかった。道路には、先週いたような風船を持った営業担当の男たちの姿もない。

「早かったかしら」

少し汗ばむほどの陽気だ。正代はカジュアルなシャツにデニムという、全くの普段着で肢体を包んでいる。

「普通の奥様が部屋で過ごしている姿を撮影したいんです」

着飾ることなく、いつもと同じような格好で来てくれというのは、マンション側の要請だった。

正代は眩しい陽光の中、改めてそこにある低層マンションを見つめた。高級な雰囲気をたたえたその新築マンションは、部屋数もそれほど多くはないようだった。

「こんなところに住んでいる奥様に見えるのかしらね」

正代はそんなことを考えて、笑みを浮かべた。

今朝、夫は特に何も言わずに早々に出勤した。週末を前に、今夜はまた付き合いでかなり遅くなると、夫は言っていた。確かな寂しさも感じながらも、正代は多忙な夫へ理解も持ち合わせている。

夫の個人的な出費がどうも増えているのでは、という疑念を、正代はふと思い出した。

別に毎晩飲み歩いている様子もない。現実に出費をしているというのなら、いったい何に使っているのだろうか。

マンションの美しい外壁を見つめながら、正代はそんなことを思い、そして、あきらめる。

「わからないわ」

家計のことを考えるのなら、今日このモデルを務めることで得られる報酬のことを考えたほうがいい。正代がこの役を引き受けると連絡をした直後、既に報酬の半額が正代の口座に振り込まれている。

それは想像を遥かに超える金額だった。こんなにもらっていいのかしら。正代はそう感じながらも、勿論、受け取らぬ理由はなかった。

「奥様、こんにちは」
「えっ?」

唐突に声をかけられ、正代は現実に引き戻された。目の前には先週、この仕事について説明をしてくれた男性がスーツ姿で立っていた。

「お忙しいところ、今日はありがとうございます」
「い、いえ・・・。少し早かったかしら」

「既にスタッフはスタンバイしておりますので。早速参りましょうか」
「お世話になりますわ」

正代は彼の後に続き、マンションの中に入っていった。エレベーターに乗った正代は、最上階の4階に案内された。

「このフロアは下よりもさらに間取りが広く作られてます。今日は一番奥の部屋を使って撮影しますので」
「わかりました。でも、本当にこんな格好でいいのかしら」

「大丈夫ですよ。あとはカメラマンから何か指示があると思います」
「カメラマンさんはおひとり?」

「ええ」
正代の問いかけに詳しいことは話そうとせず、男は部屋の鍵を開けた。

「さあ、奥様、どうぞ」
正代は、一瞬のためらいを感じた。

引き返すならまだ間に合う、というささやきが、どこかから聞こえてくるような気もした。だが、同時に、何か刺激を欲する自分がいるのも事実だった。

既に半額の振り込みがされている。今日ここでモデルを務めることは、夫も知っている。正代は、強引に自らの不安を打ち消した。

「どうしましたか、奥様」
「い、いえ。では、失礼しますね」

パンプスを脱ぎ、正代は室内に入った。細い廊下状の場所を抜けると、想像以上に広いリビングがあった。大きな窓から見える外の風景は、4階とは思えないほどに眺めのいいものだった。

「まあ、素敵ね」
正代は思わずそうつぶやき、窓のそばに立った。思いがけず、この部屋からは正代の自宅も遠方に確認することができた。

「自宅も見えますわ」
「そうですか。この辺りは高層の建物がほとんどないですからね」

ゆっくりと室内を観察する。モデルルームのようにそこは既に様々な家具が置かれ、いつでも生活できるような雰囲気が漂っている。

ダイニングからキッチン、そしてドアの向こうに大小計3つの寝室から浴室まで。どこも高級感に満ち溢れていた。

「どうですか、こちらに買い替えるというのは?」
背後に立っている男性が、正代にそう誘った。

「そうねえ。悪くなさそうな話ですけどねえ」
「ははは。ぜひ前向きにお考え下さい、奥様」

そんな会話を重ねているうちに、マンション側のスタッフと思われる若い女性1名が部屋にやってきた。正代はリビングのソファに座り、彼女が用意したコーヒーを飲んだ。

そこで15分程度、皆で話しただろうか。男性スタッフが立ち上がって、正代に言った。

「奥様、ではそろそろ撮影を始めさせていただきます」
「私で本当にいいのかしら」

「大丈夫ですよ、奥様なら。とてもお綺麗ですから」
女性スタッフが正代に言った。

「それでは奥様、我々はこれで失礼しますので、こちらでお待ちください」
「えっ、私一人で?」

「カメラマンがここに来ますので、あとは彼の指示に従ってください。我々も彼に撮影はすべて任せていますので」
「でも・・・・・」

戸惑う人妻を残し、二人は部屋を出ていった。

「カメラマンさんと二人きりで撮影だなんて、そんなこと聞いてないわ」
残された正代は、冷え切ったコーヒーを飲みながら、不満を漏らした。

カメラマンはなかなか来なかった。緊張を感じながら、正代は自分自身に言い聞かせた。

違う自分になるのよ、今日は。正代には、それが楽しみでもあった。違う自分になるために、既に正代は一つの冒険を犯してもいた。

鼓動が高まっていくことを感じる。シャツの下が僅かに汗ばんでくる。

正代は座っていることができず、再び立ち上がり、窓際から外の風景を眺めた。

そのとき、ドアが開き、誰かが入ってくる気配がした。正代は振り向き、廊下の奥からやってくるカメラマンらしき姿を見つめた。

「モデル役の奥様ですね。今日はよろしくお願いします」
「・・・・・」

正代は言葉を返すことができなかった。

カメラを抱えた内藤が、すぐそこにいた。


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