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依頼者~緑の過去(2)

2017 07 28
「奥様ではないんですね」

緑は彼の熱っぽい視線が自分の肢体に注がれるのを感じながら、平静を装ってそう言葉を返した。

不倫を理由として、この弁護士事務所を訪れる依頼者は多い。たいていは妻のほうで、夫が浮気をしていると訴えるのが、よくあるパターンだった。

証拠を見つけてほしいという、探偵に頼むべきようなことを言いだす依頼者もいれば、慰謝料をどうすべきか、との相談を持ち込む依頼者もいる。

財産分与や親権争いを理由に、深刻なトラブルを招きかねない離婚、不倫の問題は、緑にとっては特に目新しい案件ではなかった。

女性弁護士だということで、ここにやってくる人妻も数多いのだ。

だが、目の前に座る依頼者は男性であり、自身が不倫に走っているとうそぶいている。

「弁護士の先生に依頼者がこんなことを言うのはおかしいですよね」
スーツを脱いでも、彼の額にはまだ汗が浮かんでいる。ハンカチでそれを拭いながら、彼は床に置いていたかばんから眼鏡を取り出した。

それは、パソコンなどのブルーライトから目を保護する眼鏡のように見えた。それをかけ、彼は再び緑を見つめた。

眼鏡をかけた彼は、典型的な銀行員のように見えた。だが、熱っぽく見つめてくる視線は変わらない。緑は麦茶を少しだけ飲み、依頼者に答えた。

「あまりないですわ、こういうケースは」
「そうでしょうね」

「てっきり奥様が不倫されているんじゃないかと」
「無理ないですよね。でも、妻はいたって真面目なタイプで」

彼が何を目的にここに来たのか、緑にはよくわからなくなった。狭い面談室で彼と二人きりでいることに、緑は妙な熱と息苦しさを覚えた。

事務所のほうでは、女性スタッフ2名が帰り支度を始めているようだ。それは、この事務所にこの依頼者と二人きりになることを意味していた。

面談を早く終わらせようと、緑は早口で言った。

「それで、後藤さん、今回のご相談というのは?」
「ええ」
「ご自身が不倫されているということですが・・・」

彼の真っ白なワイシャツの下に、汗がにじんでいる。だが、不思議なことに、そこに不潔な雰囲気を漂ってはいなかった。

やはり大手地銀で勤務しているからなのだろうか。一見すると怪しく見える男性ではあったが、まともな人間だと思わせるような瞬間もあった。

そして、眼鏡をかけた彼はどこか知的な雰囲気をも漂わせていた。

「妻に私の不倫がばれたんです」
「・・・・・」

「説得力はまるでないと思いますが、妻のことは愛してます。ですから、私としては不倫相手と早く関係を断ち切りたいんです」

「すみません、話がよく見えないんですが、いくつか質問しても?」
「どうぞ」

緑は、自身の額にまで僅かな汗が浮かんでいることに気付いた。それに構うことなく、緑はメモを取り出した。全ての仕草を、彼に観察されているような気がする。緑は硬い笑みを浮かべ、質問を始めた。

「結婚5年ということですが、奥様とはどこで出会ったんでしょうか」
「旅先で。銀行の連中で海に遊びに行ったとき、そこで出会ったんです」

「お子様は」
「いえ」

「奥様はおいくつでしょうか」
「私より3つ年下です。主婦ですが、自宅で翻訳の仕事を少しやってます」

「翻訳ですか」
「才女なんですよ。英語が得意で」

誇らしげに妻のことを話す彼は、ネクタイを僅かに緩め、緑に視線を注ぎ続けている。喉の渇きを感じつつ、緑は会話を続けた。

「それで・・・・、その、後藤さんが不倫されてるという方なんですが・・・・・」
「同じ行員です。大卒で今年入行したばかりの若い女の子です」

その口調は、自分の不倫相手のことを説明するようなものではなかった。まるで、自分の知り合いの娘を誰かに紹介するような話しぶりだ。

「同じオフィスにいらっしゃるんですね」
「直属の部下になるんです。他にも何名か部下はいるんですが」

「で・・・・・、いつ頃からお二人は・・・・・」
「5月末頃でしょうか。ある晩の飲み会の後に、彼女が帰りたくないっていうものですから、私もつい付き合っているうちに、気づいたらホテルにいまして」

「・・・・・」
「綺麗なんですよ、彼女。まるで女優さんみたいに・・・・。勿論。緑先生には負けますけどね」

絡みつく彼の粘っこい視線。緑は、彼にそのまま喋らせることにした。

「浮気なんて初めてでした。酔っていたこともあって、私は彼女の若い体に夢中になり、そしてその夜、二人は初めて関係を持ったんです。

それで終わりにすればよかったんですが。もう一度だけ会おう、と。それが何回も繰り返されて、関係はずっと続いています。

要するに・・・・・・、彼女は男性に抱かれることのよさを知ってしまったんです」

彼がゆっくりと麦茶を飲む様子を、緑は黙ったまま見つめた。彼の話術に幻惑されるように、緑は言葉をはさむことができなかった。

「最初の夜は、凄く緊張して、硬くなっていったあの彼女が、です。変な言い方ですが、私に開発されてしまったようなんです、彼女の躰は」

「後藤さん・・・・・」

たまらない様子で緑は声を漏らした。だが、彼はそれに構うことなく、逆に緑に問いかけた。

「緑先生、なぜだかわかりますか。彼女がここまで私に溺れてしまった理由が何か」
「さあ・・・・、それは・・・・・」

どう答えるべきか、それを考えるだけで、緑の肌に汗が浮かび、シャツを妖しく濡らした。

「彼女、私が初めての男性だったんですよ」

静まり返った弁護士事務所。ビルの外からは、金曜日夕刻のせわしげな街の喧騒がかすかに聞こえてくる。緑は椅子に座ったまま、何も言うことができなかった。

「最初の男性が私だったことが、彼女を狂わせてしまったのかもしれません。今ではもう、彼女は私と別れようとしないんです」

「・・・・・」

「どうやら、私のテクニックにすっかり参ってしまったようなんです、彼女」

彼の言葉に、緑は思わずくすくすと笑った。彼の話しぶりがあまりに滑稽であり、同時に、笑わないことにはこの場の雰囲気がどうかなってしまうような気もしたからだ。

「後藤さんのテクニックに、ですか」
「おかしいですか?」

「い、いえ・・・・、ごめんなさい・・・・、でも・・・・」
くすくすと笑い続ける緑を見つめ、少し表情を硬くした彼が言葉を続けた。

「先生は、どのくらいの頻度でご主人に愛されているんですか?」
「えっ?」
「週何回ですか?」

思わぬ質問に、緑は彼をきつい視線で見つめ返した。彼もまた、眼鏡の向こう側から好奇な視線を送り続けてくる。

「失礼ですが、そんな質問にはお答えできませんわ」
「少なくとも週1回はされるんでしょうね」

「・・・・・」
「緑先生のような方が妻であれば、私なら毎日でも抱くと思いますが」

「・・・・・」
「ご主人はお上手ですか?」

「後藤さん、いい加減になさってください」
プライベートの秘部を暴かれたような気がして、緑は思わず声を荒げた。

「申し訳ございません。突然変な話を始めてしまって」
殊勝な態度で頭を下げた彼は、しかし、緑の肢体に視線を注ぎ続けている。

無意識のうちに、緑は想像していた。目の前の彼が若い女性を抱き、彼女が声をあげてしまうほどに喜ばせている光景を。

緑は、体奥で何かが疼くような気がした。

「先生、何とか彼女に私をあきらめてほしいんですが」
「それが、今回のご相談でしょうか」

「ええ」
「あいにく、私にできることは何もありませんわ」

「そうですか」
「後藤さんから彼女にしっかり話してもらう以外にないかと思いますよ」

面談を終えることを伝えるように、緑はメモを閉じた。彼もまた椅子にかけていたスーツに手を伸ばし、かばんを持った。

「先生、お忙しいところ、ありがとうございました」
眼鏡をかけたままそう言うと、彼は椅子から立ち上がった。

「奥様を大切になさってください」
「ええ・・・・」

面談室を辞去しようとする彼の様子を、緑は確かな安堵と共に見つめた。そんな彼女に再び緊張を与える言葉を、彼は振り向きざまに発した。

「先生、一度私と試してみませんか」
「・・・・・」

すぐに冗談で切り返そうかと思ったものの、緑は言葉に詰まった。だが、同意したと思われるリスクをすぐに感じとり、何とか口を開いた。

「あいにく、主人がいますので」
「そうですね。失礼しました・・・・」

しつこく彼に迫られることをどこかで想像していた緑は、彼のあっさりとした態度に息をついた。

「緑先生、またどこかでお会いできればと思います。では」
丁寧にお辞儀をした彼は、静かに緑の前から姿を消した。

面談室に一人残された緑は、椅子に座り込んだ。汗が浮かんだ人妻の肌。事務所でこんな風に躰が疼いてしまった記憶は、緑にはなかった。


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