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6本の腕(5)

2020 05 29
夏の到来を確かに告げる日差しが上空から降り注いでいる。

しかし、この林道にはどこか冷んやりとした空気が漂っていた。見上げれば、色濃く茂る木々の葉の隙間から、青空が僅かに顔を覗かせている。

もうどれくらい歩いているだろう。美智代は肌に浮かんだ汗を感じながら、ふとその場で立ち止まった。

緩やかに登り続けている山道の途中だ。静寂に包まれた周囲からは、時折聞いたことのない鳥の鳴き声、そして水の音が耳に届く。

川だろうか。インターネットで調べたときには、この山道に沿って、太古の昔から細い水の流れが存在していると書いてあった。

「この登山道を1時間程度歩いた先になりますよ」

ふもとにある名ばかりの小さな駐車場で降りた際、中年のタクシー運転手は美智代にそう教えてくれた。

「さすがに今日は空いているようですね」
「平日ですからね。もっとも週末でもここはそれほど混雑はしませんよ」

「お堂を見学にいらっしゃる方は?」
「開いてなければ、何も見るものはないですからね。よほどこの土地の歴史に興味がある人が来るくらいですよ」

遠慮なくタバコに火をつけ、うまそうに煙を肺に送りながら、運転手はタクシーを降りた美智代を見つめてそう言った。スタイルのいい人妻の肉付きを観察するような視線が、美智代に絡みついている。

「年1回、お堂が開かれる時は混雑しますけどね。ちょっと変わった彫刻ですからね。お客さんもそれは知っているんでしょう?」

運転手はどこか意味深な笑みを浮かべ、そして美智代の肢体をねっとりとした視線で再び見つめた。

午前中、美智代は高島のいる代理店を再び訪問し、最後の打ち合わせをした。ランチを一緒した後、市内を案内すると強く迫ってきた彼をどうにか振り切り、美智代はこの地にやってきた。

市内中心部からタクシーで1時間程度走っただろうか。車はすぐに山に入り、やがて深い緑に包まれた森の中へと進んでいった。

仕事から直行した美智代は、白色を基調にしたスーツ、そして膝丈のタイトスカートという格好であった。車を降りた美智代は、脱いだ上着を腕に抱えた。上半身はこれも純白のブラウスで包んでいる。

控えめながら美しく盛り上がった人妻の胸元に視線を注ぎつつ、彼は会話を続けた。

「お客さん、あの彫刻に興味がおありですか」
「ええ、少し」

「失礼ですが、結婚されてますよね?」
「ええ」

タクシーの傍らで立ったまま、美智代はその質問を既に想像していたかのように、笑みを浮かべながら運転手に答えた。

「今日はお寺に行っても王妃には会えませんよ」
「それはわかっていますが。雰囲気だけでもと思って」

「歴史がお好きなんですね」
「ええ」

軽く会釈をして森の中に向かおうとする美智代に、背後から運転手が声をかけた。

「奥さん、帰りはどうされますか」
森に入る直前、立ち止まった美智代は、少し考え、そして答えた。

「何時になるかわかりませんから・・・。降りてきたら、またタクシーを呼びますわ」
「ここで待ってますよ」

「いえ、それは・・・・」
「料金は結構ですから。市内に戻るより、また奥さんを乗せた方が仕事になります」

「でも・・・・」
「奥さん美人だから、サービスさせてもらいますよ」

身体の曲線を確かめるようにまとわりついてくる視線を最後まで感じていたが、美智代はその運転手にどういう訳か不快な印象を持つことはなかった。

「勿論、明るいうちに戻るつもりですから」
「随分日は長くなりましたからね。ゆっくり行ってきてくださいよ」

そして美智代は深い森の中に足を踏み入れた。

少し歩き始めただけで、美智代はここに来て良かったと思った。森林浴を目的として来ても十分に価値がありそうな、都会とは全く別の空気がそこにはあった。

それはまるで、向かっている目的地が異次元にあることを伝えるような空間だった。

オフィスから直行した格好のままこんな道を歩いている自分におかしさを感じながら、美智代は軽快な足取りで少しずつ高みを目指していく。

ここは、もう何年も前から美智代がどういうわけか気になっている場所だった。

飛鳥時代後期あるいは奈良時代のものではないかと言われている、とある彫刻がこの山奥に隠されたように存在している。

後世に作られたお堂か祠と形容できるほどに小さい木造建造物の中に、その彫刻は祀られていた。ただそれだけが、その史跡の唯一の見ものであった。

仏像の類と判断している歴史家もいるが、実際には何を表した物なのか、はっきりしたことは未だわかっていない。

この地に古くから伝承される話では、かつてこの辺りに存在していた国を統治していた王のきさき、つまり王妃の姿であるとされており、一応それが定説になっている。

「そろそろ1時間ね・・・・」

強い陽光を木々の向こう側に感じながら、美智代は細く伸びる林道の先を見つめた。そこにもやはり、人の気配は一切なかった。

この場所に来るまでの道のりも同じだった。1時間程度歩いたというのに、美智代はほとんど人とすれ違うことがなかった。

登り始めてまもない頃、3人組の若い男性と遭遇しただけだ。皆、大柄で体格がいい3人だったが、どこか寡黙な雰囲気を漂わせ、美智代にも穏やかな笑みを浮かべて会釈をしただけだった。

「本当に誰もいないわ・・・・」

だが、それは美智代が望んでいたことでもあった。過去、数多くの遺跡、史跡を訪問した彼女であったが、混雑を避けて自分自身の世界に浸りたいといつも感じていた。

遠方にようやく林が途切れ、何か建物らしきものが見えて来る。日差しを避けるようにハンカチをかざしつつ、美智代はやがてそこにたどり着いた。

想像以上に広く、しっかりとした木造建築の建物がそこにあった。

本堂と思われる建物、そしてその後方の森の中に隠れるように建つ木造建造物。その二つだけが、ひっそりと静まり返った森の中にたたずんでいる。美智代は順に足を運んだ。

かつて、この地を統治していたという王国。そこに君臨していた王、そしてその妻である王妃。美智代は瞳を閉じ、二人の姿を想起する。

国同士が激しく争い、互いに血を流しあったいにしえの時代。この深遠な木々の空気に包まれ、王妃は王と深く愛し合っていたのであろうか。

どこかから、水の流れる音が聞こえてくる。観光客向けの案内も特に見当たらない。瞳を開き、想像の世界からいったん現代に戻った美智代は、最奥にある建造物の至近距離にまで近づいた。

今日この場所に来たのは、この祠の周囲に漂う空気を確かめるためであった。

格子状の作りの木製の扉に、決して似つかわしくない現代の鉄製の鍵が備わっている。固く閉じられたその奥に、王妃の彫刻があるはずだ。

年1回だけ、この扉は開かれる。それは、ここにあった王国が敵国に打ち勝った日と伝えられている10月のある1日だけだ。

固く閉じられたままの扉に擦り寄り、美智代は中を覗き込むように顔を密着させた。完璧な暗闇がそこにあり、彫刻の気配すら感じられない。

僅かでもそれを拝むことができればと思ってやってきたが、やはり難しいようだ。美智代はそう感じながらも、静寂の中、一人その暗闇を息を飲んで見つめ続けた。

白いブラウスの下に汗が浮かび、背中にブラの紐が透けて見える。官能的な曲線を描くヒップを、白のタイトスカートが包んでいる。

一瞬、雲が日差しを遮り、闇の気配が森に舞い降りる。

誰かの手が、美智代の肩に触れた。

人妻の肢体が、弾けるように震えた。


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