FC2ブログ

6本の腕(9)

2020 06 26
「あと10分経っても下りて来なかったら探しに行こうかと思ってましたよ」

ふもとに向かう車を走らせながら、運転手はミラーに視線を投げた。後部座席に肢体を沈める女性は、どこか緊張しているように見えた。

「奥さん、大丈夫ですか?」

長い陽の名残が、急速に山の向こう側に隠れようとしている。曲がりくねる道で、運転手は慣れた様子でハンドルを切り続ける。

うつむいた彼女の表情を確認することは難しかった。だが彼は、緊張と共に、人妻が鼓動を高鳴らせていることを知った。

「どうでしたか、お堂は?」
緊張を和らげようと、敢えてのんびりしたトーンで彼は言った。

「え、ええ・・・・」
車に乗って、人妻は初めて口を開いた。

「長時間待たせてしまって申し訳なかったです」
彼女の言葉に、運転手は少し安堵を感じた。

「街に戻っても大した仕事にはなりませんでしたから。しかし」
ミラーに映る人妻の姿は、山に登る前よりも色っぽく見えた。冷静さを奪うような彼女の色気を感じながら、彼は言葉を続けた。

「心配しましたよ。いつまで経っても下りて来ないんですから」
「私、どれくらい山にいたのかしら・・・・」

「4時間近くですね」
「そんなに・・・・・」

「途中で何かあったのかと」
何気なく言ったセリフに、人妻の瞳が揺れ動いた。何かを隠すように口をつぐんだ彼女に戸惑いつつ、運転手は気楽な調子で続けた。

「あそこまで結構あったでしょう」
「ええ」

「今日は歩く人も少ないですから。何があっても不思議じゃないですよ」
「ほとんどすれ違う人もいませんでしたわ」

「王妃には会えましたか?」
「・・・・」

突然の質問に、美智代は言葉を詰まらせた。この運転手は全て知った上で、こんな風にさりげない質問を繰り返し、私を追い詰めようとしているのではないだろうか。

「年1回だけですからね、あの扉が開くのは」
「え、ええ・・・・。今日はただ外から」

「それでも雰囲気は感じられたんじゃないですか」
「そうですね・・・・、とても・・・、よかったですわ」

あの場所で自分自身に起きたこと。美智代はまだそれを受け止めることができなかった。リアルな夢の中で起こったことのように思える。

気づいた時、美智代は椅子に座り、全身にぐっしょりと汗をかいていた。お堂の扉は大きく開かれ、外の森には夕暮れの気配が訪れようとしていた。

人の気配は一切なく、そこにはただ王妃がいるだけだった。

乱れた服装を整え、美智代はそこから足早に立ち去った。それ以上留まったなら、また誰かがやってきて拘束されてしまうような気がしたのだ。

運転手が何を知っているのか試すように、美智代は質問を投げた。

「あの場所を管理されているという方が一人いらっしゃいました」
「管理?」

運転手が少し驚いた様子でミラーを見る。美智代は妙な胸騒ぎを覚えた。

少しずつ車の量が増え、街が近づいていることを教えている。ホテルに繋がる幹線道路に戻ったことに気づくことなく、美智代は彼の言葉をただ待っている。

「おかしいな。平日はあそこには誰もいないはずですけどね」
「いえ、確かに管理されてる方がお一人。だって鍵を」
「鍵、ですか?」

「あっ、何の鍵かはわからないですが、史跡を管理されている方なのかと・・・・」
「女性ですか?」

「男の方ですわ」
そう答えながら、美智代は両手首を見つめた。そこには確かに麻紐の感触が刻み込まれている。

「週末に市役所から女性の方がいらっしゃいますが、男性は聞いたことないなあ」
「そうですか・・・・」

あれは一体誰だったのだろうか。ホテルに近づくタクシーの後部座席で、美智代はためらいながら記憶をたどり寄せた。

あの空間に誘いこまれ、好きなようにいじめることができそうな女性がやって来るのを、あの男はあそこでただ待ち続けていたのだろうか。

そんな安易な罠にはまってしまった自分に、美智代は深い羞恥を感じた。しかし、あの王妃の姿を目にした瞬間、私はどこかおかしくなってしまったのだ。

まるで、自分の中で何年も眠り続けていた感情が目覚めてしまったかのように。

喉が激しく乾いている。どういうわけか、ビールを口にしたいという欲求を強く感じる。喉を潤し、酔いに身を任せてみたいという、普段は決して抱かない欲求。

私、まだどうかしているのかもしれない・・・・。あの場所で、意識を失う直前に覚えた震えの余韻が、人妻の肉体を濡らし続けている。

「奥さん、そろそろホテルですよ」
言葉を返そうとしない人妻の姿を、運転手は再びミラーの中で見つめた。

こういう女を一度でいいから抱きたいものだ。乗客にそんな感情を抱くことは、彼には珍しいことだった。人妻の色香は、登山前より明らかに濃厚になっている。

「どうですか奥さん、これから一緒に夕食でも」
「夕食ですか?」
「地元の美味しい店を紹介しますよ」

美智代は信じられなかった。一瞬、自分がその誘いを受け入れようかと迷ったことに。

「いえ、結構ですわ」
「明日ご出発ですか?」

「ええ」
「じゃ、今晩はゆっくりされてください」

「そうしますわ」
ホテルの前でタクシーを下り、美智代は運転手と別れた。彼に全て知られているのかもしれない。タクシーが走り去った後、美智代は再びそう思った。

とにかく部屋に戻りたい。熱いシャワーを浴び、あの山奥での出来事を忘れ去るのだ。ホテルに入り、美智代は足早にエレベーターに向かった。

「尾野さん、今お戻りですか?」
広いロビーの椅子から立ち上がった男が、待ちわびていたような表情を浮かべて近づいてくる。

「橋本さん・・・・」
その瞬間、美智代は感じた。この男にも、今日の午後の姿を知られているのではないだろうかと。

「そろそろ7時ですよ。尾野さん、夕食はまだですよね?」
美智代は彼の上司であることを忘れ、年少者である事実を思い出した。

長い夜になりそうな予感が人妻の心をよぎる。

「まだですけど、部屋で少しシャワーを浴びたいので」
どうしてそんなことを教えてしまったのだろう。そう後悔した人妻のすぐ目の前で、男の目がいやらしく光っている。


(↑クリック、凄く嬉しいです)
Comment

管理者のみに表示