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6本の腕(11)

2020 07 10
橋本は後部座席から身を乗り出し、前方を走る車のテールランプを見つめた。

「任せといてください。絶対まかれませんから」

初老の運転手は、過去にも尾行を経験したことがあるような口調で橋本に声をかけた。車内の時計はもうすぐ午後8時になろうとしている。

「お客さん、この土地の方じゃないですよね」
「ええ」

「この辺りは市内で一番混雑するエリアでしてね。今ぐらいの時間は車も都会並みに増えるんですよ」
「かなり先を走ってますけど、大丈夫でしょうね」

美智代が乗ったタクシーは、数台先にいる。信号のタイミングによっては、すぐに見失ってしまいそうな距離だ。そんな不安と共に、彼は再びおかしな気分にもなった。

降格処分になってしまうほど、派手な女性関係で過去の人生を楽しんできた自分のはずだが、どういう訳か、今夜は何も経験のない、うぶな若者のように焦っている。

これもあのタクシーに乗った人妻のせいなのだろうか。橋本は、昨夜の食事の際、代理店社長の高島にヒップの辺りを撫でることを密かに許していた人妻の姿を再び思い出した。

「尾行されてることは普通のタクシーの運転手ならすぐに気付きますよ」
「それじゃあ、尚更心配だけどね」

「これぐらいの距離を保ってね、ふらふらと追っかけていけば大丈夫ですから。それに・・・」
「それに?」

「まあ行き先は大体検討つきますよ」
「どこに向かってます?」

橋本は、自分が予想以上に気持ちを昂らせていることに気づいた。数年前にやめたタバコが、妙に恋しくなった。そして、体はアルコールを欲している。

いや、アルコールだけじゃない。あのタクシーに乗った上司の肉体を、今夜の俺は激しく求めている。

「有名な海鮮料理屋が数軒集まっている地区がありましてね。この街を訪れた方はよく利用します。女性が一人で行っても安心できるお店ばかりですからね」

心配した信号で引き離されることもなく、橋本の視線の先には美智代が乗ったタクシーがはっきりと捉えられている。橋本はふと胸騒ぎを感じた。

運転手は、乗客の心の乱れを先回りするように聞いた。

「ひょっとして女性はお一人ではないんですかね」
「えっ?」

「女性一人での食事なんて言いましたけど、お店でどなたかと待ち合わせしているとか」
「いや、それはないはずです」

自らに言い聞かせるように、橋本は思わず強い口調で答えた。だが、美智代が誰かと待ち合わせていないなどと、どうして断定できるだろうか。

代理店の誰かと密かに会うかもしれない。あるいは今日訪れた秘境の地、雲崎峡で誰かと出会った可能性だってある。

それにしても・・・、と橋本は思う。彼女はなんと言っても既婚者だ。夫の目が届かない出張の地であっても、そんな行為に走る女性ではないはずだ・・・・。

「お客さん、予想通りの店ですね」
いつしか、タクシーは川沿いの細い通りを走っている。想像とは異なり、そこは喧騒から少し離れた落ち着いた風情を漂わせる場所だった。

前方を走っていたタクシーが止まり、ワンピース姿の美智代が降りる様子が見える。橋本の乗ったタクシーは、かなり手前の路肩に停車した。

「あそこのお店か。彼女はお酒が好きなんですかね」
「それほどでもないと思いますが」

「酒と肴で有名な食事処ですから、あそこは」
「中は広いんですかね」

「狭いです。気をつけてください。お店に入ったら、まずバレますよ」
「そうですか・・・・」

「どうします、このままここで待ちますか?」
橋本は少し迷ったが、金を払い、いったんタクシーから降りることにした。

日中の暑さを癒すような涼しげな風が、川沿いに並ぶ木々の葉を揺らす。暗がりの散歩道を、何組かの若いカップルが声を潜めて歩いている。

「さて、これからどうすべきか」

ホテルで口にしたのと全く同じセリフをつぶやきながら、橋本は美智代が入った料亭風の店の入口が見える場所で、電柱にもたれるようにして立った。

密かに尾行し、無防備な姿を見つめていたからだろうか。今夜の美智代はオフィスの姿以上になまめかしく、色っぽく見えた。

ひょっとして午後に訪れた雲崎峡のせいなのかもしれない。そんなことを想像しながら、橋本はタバコを吸う自分を想像し、美智代のワンピースを乱暴に脱がすことを想像した。

「思い切って店に入るか」

このままここで待ち続けても、美智代が店から出てくるのは何時間も先になるかもしれない。だが店に入れば、すぐに見つかると、あの運転手はそう忠告した。

「構うことない。偶然を装って強引に同席すればいい。向こうは間違いなく一人だ」

これまでの俺なら、迷うことなくそんな思い切った行動に出たはずだ。そう言い聞かせながらも、橋本はしかし、いつもとは違う自分を今夜感じている。

いくら年下であっても相手は上司である。そして、彼はいつの間にか人妻、尾野美智代に自らを見失うほど激しすぎる欲情を抱いてしまっていた。

「店に入るのはやめだ・・・。だったら、自分の運に賭けるだけだろう」

先刻からアルコールを欲している体を癒してやる必要がある。彼は、美智代の入った店の3軒隣にある平凡な居酒屋を選んだ。

「ここで2時間だ。尾行の続きはそれからだ」

そして、彼は若者たちで賑わう居酒屋のカウンターで、一人生ビールを喉に注いだ。至近距離にいる人妻が一人食事を楽しむ姿を思い描きながら。

重苦しく過ぎ去るであろうという想像とは裏腹に、2時間は瞬く間に過ぎ去った。午後10時過ぎ。橋本は酔いを感じさせることなく、確かな足取りで店を出た。

美智代が入った店は、まだ灯も消えておらず、営業を続けているようだった。もうここにはいない可能性だってある。しかし、彼は妙な自信があった。

「まだいるはずだ。もうすぐ・・・・、もうすぐ出てくる・・・・」

彼は、川沿いの小道の木陰に再び歩を進めた。そして、獲物が罠にかかるのを待つように、狡猾な視線を店の入口に注いだ。

もし美智代が出てきたら、俺は一体どうするというんだ。ほろ酔い気分であろう人妻に接近し、もう一軒どうですかとでも誘うのか。

それではまさに、うぶな若者、いやそれ以下の行動ではないか。

一瞬、彼は美智代がもうこの店を後にしていればいいが、と思った。その時だった、入口の引き戸が開いて「人妻」が店の外に出てきたのは。

スリムな肢体にワンピース姿がよく似合っている。持ち前の嗅覚を瞬時に取り戻した橋本は、しっかりとした姿勢を保っている人妻がほのかに酔っていることを知った。

「評判の酒でも店から薦められたか」
店の前でしばらく立ったままの美智代の姿を見つめ、彼はそんなことを思った。そして、もう迷うことなく、彼女に向かって歩き始めた。

「・・・・!」
数歩歩いた時、彼はそれに気付き、すぐ立ち止まった。そして、素早く木陰に身を隠した。

店の中から、男性が3名外に出てきた。橋本は、人妻がその3人の男に囲まれ、恥ずかしげに会釈をする姿を目撃した。

「誰だ、あいつら・・・・」
店の前で楽しげに会話を交わす4人を見つめ、橋本は鼓動を高めた。

少なくともそれは、昨夜の代理店の男たちではなかった。


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